子育て×哲学×社会学「この青空を、君へ」

父から息子へつなぎたい思想

『気流の鳴る音』の要点引用をちょっとずつ

気流の鳴る音を何度も何度も読んでいる。
本文の要点と思う箇所の引用をちょっとずつまとめようと思う。

ページは、↓文庫版のもの

更新履歴

2022/08/16 カラスの予言P54~P59
2022/08/15 カラスの予言P41~P50

序 「共同体」のかなたへ

ラカンドンの耳
紫陽花と餅
マゲイとテキーラ

Ⅰ カラスの予言ー人間主義の彼岸

主題


目的はあくまでも、これらのフィールド・ノートから文化人類学上の知識をえたりすることではなく、
われわれの生き方を構想し、解き放ってゆく機縁として、これらインディオの世界と出会うことにある。
P41

第1図 主題の空間 p42

「世界」と<世界>のちがいについては、それ自体本文の全体を前提するので、あらかじめ正確に記述することはできない。とりあえずこうのべておこう。


われわれは「世界」の中に生きている。けれども「世界」は一つではなく、無数の「世界」が存在している。

「世界」はいわば、<世界>そのものの中にうかぶ島のようなものだ。
けれどもこの島の中には、<世界>の中のあらゆる項目をとりこむことができる。


夜露が満天の星を宿すように、「世界」は<世界>のすべてを映す。球面のどこまでいっても涯がなく、しかもとじられているように、「世界」も涯がない。

それは「世界」が唯一の<世界>だからではなく、「世界」が日常生活の中で、自己完結しているからである。
P43-44

ドン・ファンの思想(=生き方)はまず、この「世界」からの超越(彼岸化)と、この超越に媒介された、「世界」への再・内在化(此岸化)という、上昇し下降する運動内にもっている。


同時にこれはべつの次元で、<世界>からの超越(主体化)と、この超越に媒介された<世界>への再内在化(融即化)という、やはり上昇し下降する運動を内包している。
P44

草の言葉・魚の言葉


「自尊心てのは、履歴とおなじで、捨てねばならぬものだ。」
「いまは、自尊心をなくすことにとりかかっとるんだ。おまえは、自分は世界で一番大事なものだなぞと思っとるかぎり、まわりの世界を本当に理解することはできん。おまえは目かくしされた馬みたいなものだ。あらゆるものから切り離された自分しか見えんのだ。」
〔「旅」四四、四六〕
P47

ここで主題化してみたいことは、これらのいいつたえの多くが有効であるとかいうこと自体ではなく、そのような動物たちの「警告」や「予言」をききわけてきた「世界」のあり方である。


カエルやネコやミミズやツバメが、温度や湿度や気圧や地熱、あるいはそれ以外の要素のきわめて微小な変化にたいして、人間を超えた敏感さや「知恵」をもっていることがありうる、ということは、どんな近代人にでも了解しうる。


このような動物たち(あるいは植物たち)の感受性は、必ずしも気象の変化にたいしてだけではないだろう。彼らのデリケートな反応は、人間という種族にとって直接には感覚しえない精妙な変化の開始を、人間にもみえるかたちで増幅し、告げ知らせてくれる。


このような動物たちや植物たちと共に生きていた人間たちにとって、これらの動植物のうごきは、いわばみずからの拡大された感覚器として、その感性と理性の延長に他ならなかった


テクノロジーの発達によって人間は、べつのいっそう強力な「拡大された感覚器」をもつ。気象や異変の個々の現象を予知する能力に関していえば、概してこんにち人間は、昔の仲間たちの協力を必要としないほど巨大な予報のシステムを発達させてきた。けれどもこれらのテクノロジーがけっして補償しなかったものは、おそらく共存する全体性へのバランスの感覚のようなものだ。
P49-50

価値感覚のズレは本質的なのだ。


例えば貨幣というものによってあらゆる個別の価値が通約され、決済され、抽象され、一次元化される「世界」と、
時間は時間、原野は原野、海は海、生命は生命といった、けっして決済され抽象化されることのない個別の価値の次元性のあやなす「世界」と。


このすれちがいは、インディオの生きる世界から、薬用植物の「使用法」についての情報だけをすくってもち帰ろうとするカスタネダと、植物について知ることはその植物と友だちになり、その植物と生きる世界を共にすることだというドン・ファンとの、前提のすれちがいと対応する。
小さな植物にひざまずき、カラスの声に予兆をききとって畏れるドン・ファンの共感能力があれば、水俣病は起らなかったはずだ。


人間主義(ヒューマニズム)は、人間主義を超える感覚によってはじめて支えられる。


水俣病とは、「わたしたち自身の中枢神経の病」(石牟礼道子)に他ならない。私たち自身が水俣で、そしてまたいたるところで病んでいる。視野狭窄と聴力障害、言語障害と平衡感覚の失調。


テクノロジーの獲得した巨大な視界と対応能力は、喪われた視界と対応能力をけっして補償していはしない。
P54

おそれる能力


このような「知恵」じたいをたえず生成する母体そのものは、たとえばこの世界のすべてのものごとの調和的・非調和的な連動性への敏感さや、自己自身をその連動する全自然の一片として感受する平衡感覚の如きものであり、「予兆」への技術化された個々の知識とは、このような基礎感覚の小さな露頭にすぎないのだろう。


ドン・ファンカスタネダに、ウズラの習性にのっとった巧妙なワナの作り方をおしえる。日がくれるまでに首尾よく五羽をつかまえる。食べるだんになると、「わしらには二羽で充分だ」といって、残りの三羽を放してやる。


そしてウズラの焼き方をおしえてくれる。カスタネダは以前祖父がやっていたように、灌木を切って並べてバーベキュー・ピットを作ろうとする。しかしドン・ファンは、もうウズラを傷つけたのだからこ以上灌木を傷つけることはない、といってふつうのローストにする。〔「旅」九六〕


食べおわってからカスタネダが、もし自分にまかせていたら五羽とも料理していただろうし、自分のバーベキューの方がドン・ファンのローストよりもずっとおいしかっただろうという。「きっとな」とドン・ファンは答える。「だが、もしそうしてしまっていたら、灌木も、ウズラも、まわり中のものがみんな、わしらに攻撃を開始しただろう。」〔同九七〕


「狩人であるってことは、たいへんな量の知識をもってるってことだ。世界をいろいろちがった仕方で見ることができるということでもある。狩人であるには、ほかのあらゆるものと完全なバランスがとれていなければならん。」
P56-57

これらの例はドン・ファンの、〈感覚としてのエコロジー〉ともいうべき、全体の流れにたいする感受性と、このような平衡感覚の表現としての、個物にたいする〈畏れる能力〉のようなものをよく示している。原生的な諸部族のあいだの自然物への「タブー」のあるものは、このようなエコロジカルな平衡感覚を母体としているかもしれない。
P58

合理主義か非合理主義かというようなことではなくて、合理性の質の相違を確認しておきたいと思う。
P59

「擬人法」以前


ドン・ファンが生きているのは、このようなヒトとモノへの存在の排他的区分以前の、自然と人間とが透明に交流する世界である。
P62

バベルの塔の神話
<トナール>と<ワナール>

Ⅱ  「世界を止める」ー<明晰の罠>からの解放

気流のなる音
音のない指揮者
ドン・へロナが頭で坐る
呪者と知者
世界を止める
明晰の罠
対自化された明晰さ
目の独裁
焦点をあわせない見方
「しないこと」
ねずみと狩人
窓は視覚を反転する

Ⅲ 「統御された愚」ー意志を意志する

Ⅳ 「心のある道」<意味への疎外>からの解放