子育て×哲学×社会学「この青空を、君へ」

父から息子へつなぎたい思想

「今」の最高到達点を仲間とともに乗り「越」え 、縁を「結」い続け、縁を「大」きく広げていく

「今越結大」はペンネームなわけですが、
自己紹介がわりに、どうして、こんなペンネームをつけたのかをまとめました。
改めてまとめると、割りと結構考えたなって自画自賛しています(笑)

最後に、今越結大をつくった参考図書をいくつかあげますので、
興味あれば読んでみてください。どれも哲学・社会学を学ぶ上での良書です。

結論からいうと

「今」を仲間とともに乗り「越」え
縁を「結」い続け
縁を「大」きく広げていく

その想いを込めて「今越結大」と名を付けた。

このブログの言いたいことは、この名前に集約されている。
各記事は、それを先人たちの知恵からだったり
自分の経験からだったりを使って表現することになるだろう。

このペンネームをつけるに至った経緯の詳細を以下に記したい。

雄大」から「結大」へ

昔から名前を「雄大(ゆうだい)」と間違えられることが多かった。

ならばと、当時使っていたmixiのニックネームを「ユウダイ」とした。
なので、「ユウダイ」を使い続けられたらいいかも?と思った。 「結」を当てた理由は後述。

「今」と「ここで」

幼少の頃から、父親に「Now and Here」と言われてきた。

「今、ここで」を大切にせよということだ。

過去はない
未来もない
あるのは永遠に続くいまだけだ
いまを生きよ、いまを生き切れ

とは、私の師匠田坂広志先生*1の教えだ。

つねに、「今」ということを意識して生きてきたように思う。

「成長」という言葉に対する疑問

40代になり、「成長」という言葉に疑問を持つようになる。

人生において果たして「成長し続けること」は大切なのだろうか。
「成長」という言葉は好きだし、大切だと思うが、一方で、 「成長」という言葉に対するこんな呪縛があるのではないかとおもうようになる。

■年齢の呪縛

 20歳だったらこれくらいできていないととか
 40歳なのにこの程度で成長してないなとか
 この歳なのにこんなこともできていないと自分を裁いてしまう

■短期間の呪縛

 短期に成長することが価値と考えてしまうことがある
 この1年で成長できてないとか
 3年もやってるのにこの程度とか

■孤独の呪縛

 成長は自分が○○できるようになった
 〇〇が身についたなど
 主語が「自分」

■インプットの呪縛

 身につけることも削ぎ落とすことも成長だと思うが、
 基本的に成長というと「インプット」のイメージがつよい
 上記の通り身につける、吸収する(インプット)のイメージ
 特に独身の頃よりインプットの時間が取れなくなっていて、このままじゃヤバいんじゃないかと焦ることがある。

■右肩上りの呪縛

 成長というと、イメージとして、常に右肩上りの線をイメージする。
 前年比、昨日の自分よりどうかなど

■成果の呪縛

 成果がないと成長を実感できない。
 結果としての「成長」のはずが、
 目的や手段化してしまい苦しむことになる

「成長」から「乗り越える」へ

そんな時、竹田青嗣先生や見田宗介先生の著書と出会う。
この先生方にかぎらず、哲学者たちはよく「乗り越える」ということばを文中で使う

「乗り越える」という言葉のイメージとしては、
まず年齢は関係ない。
何歳なのにのりこえられてないのかというように思わない。

短期でのりこえることが価値ではない
どちらかといえば、挑戦し続けている姿が価値とも言える。

自分だけでのりこえなくてよい
ひとりでのりこえるのではなく、仲間とのりこえたっていい

インプットというよりはアウトプットのイメージ
のりこえるべき対象に対して、自分や仲間の力を結集してぶつけてのりこえる

右肩上りでなくてよい
のりこえるためにその場に留まって挑戦しつづけていい
のりこえるのは成果があればもちろんそれに越したことはないが
どちらかといえば、挑み続けることが価値のイメージ

そして、この一文と出会う

戦後文学をその最低の鞍部においてこえてはならない

本多秋五

思想でも文学でも理論でも、その弱い所、欠点を探して批判することはかんたんにできるけれども、その思想なり文学なり理論なりについていちばん高い所、すぐれた所を把握して、そのうえでのりこえるのでなければ、本当にのりこえつくしたことにはならない、ということですね。
『戦後思想の到達点』*2見田宗介

そして、過去の最高到達点を把握し、その上で「今」を乗り「越」えよう。 よって、名字は「今越」とした。

「時間」が存在しなければ、「世界」も存在しない(人とのご縁について)

物理学者のカルロ・ロヴェッリが「時間は存在しない」という著書のなかで、物理学的に時間は存在しないという考察を展開している。*3

著書によると時間は「存在する」ものではなく、「起こる」ものと書かれている。
他者との関係性、相互作用があったときに、時間は起こると。

そう考えると「時間」と同じく「世界」もそうなのだと思う。
世界も本当は無い。

世界も、自分と他者との関係性の中で起こるものなのではないか。
自分と他者との相互作用があって初めて世界は輪郭を表す。
自分と相互作用が起こらないところにやっぱり世界はない。
どんなにインターネットが発達して、世界中の情報が手に入るようになっても、自分と相互作用が無いところに世界はやっぱりない。

引き寄せて 結べば草の庵にて 解くればもとの野原なりけり

仏教の「空」を説明するのにとてもわかりやすい歌。*4

「結ぶ」という行為が、庵を「有る」ものにもするし、「無い」ものにする。
世界が関係性の中で起こるということは、人と人との「縁」を「結ぶ・結う」という行為が鍵をにぎる事がわかる。

やっとここででてきましたね「ユウダイ」のユウを「雄」から「結」に変えた理由はこれです。

100年かけて変える(世界を変えるなかまをあつめる)

見田宗介先生の著書『現代社会はどこに向かうのか』*5の一節でとても好きな思考実験がある。

私の本業はIT関連だが、アナログ・一対一の対話・正対が現実を変える一番の方法だと今でも思っている人です。

一つの純粋に論理的な思考実験を行ってみる。
一人の人間が、
一年間をかけて一人だけ、
ほんとうに深く共感する友人を得ることがで きたとしよう。
 
次の一年をかけて、
また一人だけ、生き方において深く共感し、
共歓する友人を得たとする。
このようにして一〇年をかけて、
一〇だけの、小さいすてきな集団か
関係のネットワークがつくられる。
 
新しい時代の「胚芽」のようなものである。
次の一〇年にはこの一〇人の一人一人が、
同じようにして、一〇人ずつの友人を得る。
二〇年をかけてやっと一〇〇人の、
解放された生き方のネットワークがつくられる。
ずいぶんゆっくりとした、
しかし着実な変革である。
 
同じような〈触発的解放の連鎖〉がつづくとすれば、
三〇年で一〇〇〇人、
四〇年で一万人、
五〇年で一〇万人、
六〇年で一〇〇万人、
七〇年 で一〇〇〇万人、
八〇年で一億人、
九〇年で一〇億人、
一〇〇年で一〇〇億人となり、
世界の人類の総数を超えることとなる。

縁を結い、その縁を大きく広げ、100年かけて現実を変えていく。 その思想が「今越結大」には込められています。

以後、よろしくお願い申し上げます。

今越結大

参考図書