私淑する竹田青嗣先生の著書「現代思想の冒険」
現代思想の入門書として最良とおもう。
ページは、↓文庫版のもの
更新履歴
ちょっとずつ更新
2022/09/18 終章エロスとしての<世界>バタイユの〈死〉の乗り超え
2022/08/28 〈真理〉概念の変更
2022/08/26 実存の意味
2022/08/17 序 思想について
- 更新履歴
- 序 思想について
- 第1章 <思想の現在>をどうとらえるか
- 第2章 現代思想の冒険
- 第3章 近代思想のとらえ返し
- 第4章 反=ヘーゲルの哲学
- 第5章 現象学と〈真理〉の概念
- 第6章 存在と意味への問い
- 終章 エロスとしての<世界>
- あとがき
序 思想について
世界像を思い描くことの意味
およそわたしたちがなんらかの<世界像>を思い描く行為は、わたしたちが日常の具体的な関係の世界から踏み出して、直接目に見、手で触れられない”抽象的”な関係の世界に入ってゆくことを意味している。
<中略>
現代社会において人間は、必ず誰でも自分の具体的な日常世界のほかに、概念の網目としての〈社会〉といういわば"言葉の国"を持っている。
<中略>
誰もが、自分の脳裡に知らず知らず編み上げている〈世界像〉に媒介されて、はじめて多くの見知らぬ人々と関係を結んでいる。
<中略>
こう考えてみると、わたしたちがそれぞれ<世界像>を思い描くということは、単に思想という問題を超えて、現代社会の人間にとって基本的な事実であることがわかる。
わたしたちは誰も決して社会から孤立して生きるわけにはいかないが、じつは社会という関係の中に人をつなぎとめる役割を果しているのは、ただ個々の人間が観念の中に描きあげる <世界像> だけなのである。 P13-14
〈世界像〉を思い描く行為の三要点
- 〈自我〉の確定
自分のライフスタイルの思い描きそのものが、社会全体のイメージなしには決して成り立たない。
それだけではない。ひとは若い頃からさまざまな<世界>を思い描いてそれに憧れるが、この<世界>への感受性のかたちが、友人や仲間との世界を形づくり、その共同性の中での自分の役割を確定してゆくうえでの唯一の土台になるのだ。 - 社会への実践的操作の技術、権力操作
〈世界像〉をつかむことは、現実の関係を把握し、それに働きかけ操作することにとって不可欠である。
///
権力を機能させるには、社会を総体として把握すること、操作作可能なものとしてつかんでおくことが必要不可欠だからである。 - 社会構造の改変の手だて
人間は、生活のうちでの耐え難い苦しみが、日常を超えた大きな社会の枠組からもたらされていると感じるとき、この社会の枠組を改変してゆこうと努力する。
///
ひとはともかく実験として大きな矛盾の原因と結果を思い描き、その原因に働きかけてみる。
こういった思い描きを欠くならば、社会に対して実践的な関係をとるということそれ自身がそもそも不可能だからである。
///
〈世界像〉とは、じつは個々の人間のうちにあって、しかも個々の人間を社会的な存在として関係づけている根本の原理なのである。
P14-16
「世界について」考えることの両義性
注意すべきなのは、どんな人間にとってもたいていは、彼の〈世界像〉はすでに社会の中に存在している一定の〈世界像〉の中から選びとられるにすぎない、という点。
///
〈世界像〉の本質は、それが個人を〈社会〉に関係づけ、彼を社会的存在として生かしめるという点にある。
これを〈社会〉の側からみれば、〈社会〉は、いわば〈世界像〉という装置によって、ひとびとが個的な日常を離れて社会に参入し、社会の秩序を、維持、発させてゆくような回路を作りあげている、ということになる。
///
だがそのために必要なのは、〈世界像〉がなるべく一定のものであること、またそれがねに社会の本質を守ってゆくようなものとして形成されることである。こういう場面で〈世界像〉は、いわばイデオロギーの機能を果たすことになる。
P17
〈世界像〉は価値の関係像を含む
〈世界像〉は単に社会総体の客観像をめざすだけでなく必ず価値の関係像を含んでいる。
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ひとびとは、誰でもまずはこの一般的〈世界像〉や価値観の中で生きてゆく。この〈世界像〉や価値観が、およそ人間の生活上の目標や意味を作り出し、その中でひとは具体的生の理由を見出す。
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ひとはしばしば、この現実の欲望のかたちそのものを一挙に純粋で正しいものに置きがえようと夢想するが、おそらくその考えには無理がある。
P18<世界像>編み変えの現実的動機
ひとは、生活のなかで、この<世界像>や価値観が自分の生を生き難くし、大きな苦しみをもたらしていると感じるような場面にほぼ例外なく出合うことになる。
///
一般的に、「世界について」考える"思想"の動機は、こういう場面から発している。
どんな思想も、そういった人間の現実の場面から立ち上り、時代の中で〈世界像〉の新し普遍性をめざす。それはしたがって最終的に、ある社会的本質を持っている。
しかし、思想の意味は、ただこの社会的普遍性を見出すということにのみ帰着するわけではない。
「世界について」考えることは、一面では人間の社会的な存在のありようの"合理"を求めることである。その意味では、それは自分を社会と関係づけるひとつの端的な方法である。だが、思想の行為そのものは、また違った側面を持っている。
P19-20生き難さ支える編み変え行為
序 思想についてへひとは、自分が現にある社会の枠組の中で、それなりに目標と意味を見出して生きる限り、あえていままで自分が持っている〈世界像〉を一から考え直してみる必要はない。
ひとが深い意味で思想を問題とせざるを得なくなるのは、自らが抱えている一般的な〈世界像〉やその価値観そのものが、どうしても自分にとって和解し難いものと感じられるような場面においてである。
///
思想は、人間が自分のうちに抱え込んでいる一般的な〈世界像〉に対する違和の意識から発し、この〈世界像〉や価値観に対する意識的な抗いの行為である。
彼は自分の中で、社会に重く蓄積されたこの〈世界像〉を編み変えようとすることを通じて、自分自身の生き難さを支える。
だからわたしたちは、優れた思想のうちに、必ず、ひとりの人間が、与えられた生の条件の中をどのようにいきようとしたかという、個人の生の痕跡をも見るのである。
P21-22
もくじへ
第1章 <思想の現在>をどうとらえるか
1戦後思想の推移
思想の中心的課題 | ||
---|---|---|
1960年代より | 大衆社会 | 戦後民主主義、戦後マルクス主義 反体制 「なぜ、日本は戦争を避け得なかったのか」「以後どのように |
1980年前後より | 高度消費社会 | 大衆社会への抑圧感 |
2 マルクス主義の崩壊と現代社会
3 高度消費社会とポスト・モダン状況
第2章 現代思想の冒険
1ふたつの源流――ソシュール言語学から構造主義、記号論へ393
2 構造主義――レヴィ=ストロースの「親族構造」、 ラカンの「想像界と象徴界」
3 記号論―ロラン・バルトの「神話作用」
4 現代思想のもうひとつの源流――ニーチェと反形而上学6
5 ポスト構造主義の思想 <脱構築> へら
6 ”認識批判”のもたらした難問 <世界像> それ自身への懐疑
7 ふたつの現代社会認識 ポードリヤール「象徴交換と死」とドゥ ルーズ「アンチ・オイディプス」
8 ポスト・モダンと<現在>の世界イメージ
9 ”現代思想”の最後の問題点
第3章 近代思想のとらえ返し
1 近代思想の起点ーデカルトの〈神〉とカントの<物自体>
2 近代社会の危機と自己克服 ヘーゲルからマルクスへ
3 近代思想の転換点
第4章 反=ヘーゲルの哲学
1 キルケゴールと実存中
2 ニーチェー反形而上学とニヒリズムの克服
第5章 現象学と〈真理〉の概念
1 〈主観/客観〉という難問
2 現実認識と「確信の構造」
3 〈真理〉概念の変更
どんな「ほんとう」も絶対的な確証(一致の)として現われることは決してないということ にほかならない。
それはただ信憑 (確信)としてだけ現われる。
信憑は信じることではない。つまり決意とか思い込みとして生じるのではない。
それはなにかがあるということを、信じざるを得ずどうしても疑い得ないというかたちで、<意識>のむこう側から人間の自由な意志をねじふせるようにやってくるものなのである。
第6章 存在と意味への問い
1 実存の意味
人間は誰も決して他人と交換できないただ一度切りの生しかもてず、そのため自分の内部だけで処理しなくてはならない固有で絶対的な課題を負っている。キルケゴールが示した人間のこういった契機を、わたしたちは〈実存〉という言葉で呼んだ。
〈実存〉とは、最終的には絶望を底板として抱えている人間の生のこの根本条件のことなのである。
〈実存〉という概念は、人間はどのように生きようと、最終的な問題の解決にも目的にも 決して達しないものとして自分の生を持っているということを告げている。
人間の〈実存〉の意味とは、だから、この”それにもかかわらず生きている"ことの意味とは何かというといにほかならないと言って良い
2 ハイデガーの存在論実存論
3世人から〈死〉の自覚へ
終章 エロスとしての<世界>
1 バタイユの〈死〉の乗り超え
欲望とはそもそも有無を言わせず心を魅惑し、強い力でその対象を指し示す(告げ知らせる)ものである。
これに対して道徳や倫理という言葉につきまとっているのは、意識的な判断と、それにむかって意志するというニュアンスにほかならない(カ ントが考えたように)。
p217
人間が「不連続」な存在であるとは、さきの文脈でいうと、その生が一度限りで交換不可能であるということとほぼ同じである。
<略>そのために人間は、いちばん底では決して〈他者〉と通じ合うことができないということでもある。 だからバタイユの「不連続」な存在としての人間という言葉は、いわば人間の絶対的な「絶望」と「孤独」ということがセットになったような概念だと考えていい。
p219
バタイユによれば「連続性」のもっとも端的な喩となるものは〈死〉である。
一般的にはむしろ〈死〉は、人間に「不連続性」を与える最大の“可能性”である。 だがそれにもかかわらず、あるいはそれがゆえに、〈死〉はかえってある場面では、人間の「非連続性」を「連続性」へと転化する最も重要な契機となるのである。たとえば、 〈死〉が単なる個体の死を意味するのでなく、より大きな生命の流れや <聖なるもの>への合一を意味する場合がそうだ。
人間の生の欲望のいちばん根底には、個体としての「孤独」や「絶望」を打ち消そうとする衝動が横たわっている、という考え方を示している。
欲望の本質性格がエロス性であるなら、人間は単に「絶望」や「孤独」を打ち消すために欲望するのでなく、むしろ、この「乗り超え」をいわば味わうために欲望する。
欲望の意味は、一義的には死の不安(=孤独、絶望)の乗り超え(打ち消し)である。しかしそれはいわば欲望の目標であり機能であり成果にすぎない。むしろ欲望の本質は、死の不安の乗り超えの行為そのものからやってくる魅惑(エロス性)にほかならない。それが彼の言う「過剰」、「浪費性」ということの意味にほかならない。
p220-221
2〈社会〉と〈人間〉の考え直し
わたしたちが近代思想―現代思想の流れを追うことからつかみ出してきた、もっとも中心のテーマは、〈社会〉という項と〈人間〉という項の、いわばどうしても相互に還元できないような契機を、どのように考え直してゆけばいいかということだった。
人間の〈実存〉から見れば、ひとびとの生を根本的におしているのは、限定されたこの生から(まさしくそれが限定されているという理由によって)、できる限りエロス性を味わいたいという衝動である。人間の欲望がこの衝動に規定されていることは、いわば「根本的事実」であろう。
そしてこの事実が人間にとっての〈社会〉という項を、つねに挫折させるものとなっていることは明らかだ。しかしまた、じつは人間が最終的に〈社会〉という項を捨て切れないのは、日常社会における欲望が、つねに一定の限定の中で挫折を繰り返すからなのである。
つまり人間の〈実存〉は、〈社会〉や〈世界〉などオレの知ったことかという叫びを一方であげるが、まさしくそこでの賭けにやぶれることによって、社会〉への信を必然的なものにするのである。
わたしたちの欲望は、日常世界の中でつねに新たな存在可能を開こうとするときに現われるエロス性を求めている。それが実存的な欲望の意味である。
しかしこの欲望は、日常性がそういった挫折の反復しかもたらさないという「体験」の積み重ねによって、この日常性それ自体を破る可能性として予感されるようなエロス性(=超越的なエロス性)を求めることになるのだ。
そして重要なのは、〈社会〉や〈歴史〉や〈真理〉に対する人間の欲望とは、まさしくそのような超越的なエロス性を意味しているのではないかということである。
つまり、ここでわたしが言いたいのは、もし実存論的な観点で欲望の意味、つまり人間の存在の意味を追っていけば、自分の生は一度だけしかないというところから現われるような"世人"としての欲望も、〈社会〉や〈真理〉へ向かおうとする〝抽象的な欲望も、じつはただ挫折した人間の〈実存〉が新しい存在可能としてつかみとろうとするエロス性への欲望という、同じひとつの本質においてしか存在していないのではないかということである。
3 超越としての〈美〉と〈エロス〉
4〈社会〉の意味
5「超越」と日常の背理
人間の「超越」への欲望は、共同的なものとして立てられれば必ずその不可能性にゆきつくという背理を持っている。だから「超越」への欲望は、ただ個々の人間の実存の中で求められるほかない。
そして逆に、わたしたちの現実を変えることへの欲望は、本来的には多くの人間がともに了解しあうという連続性への欲望なのだが、まさしくそうであるがゆえに、それはつねに"現実的な"可能性としてだけ保持されなくてはならないのである。
たとえ根本的な問題の解決"がもたらされなくとも、人間がともに自分の生き難さの根をさぐり、それを結び合って現実社会のありようを不断に変え続けてゆくことができるという可能性は、人間に相互了解の「可能性」をもたらし続けることを意味するからである。
そしてこの「可能性」が死なない限り、個々人の「超越」への実存的な欲望は、その根拠(信憑)を今ある世界から受けとり続けることができる。