子育て×哲学×社会学「この青空を、君へ」

父から息子へつなぎたい思想

客観的な<世界>は存在せず、関係の中に「世界」は起こる

前回、時間は「存在しない」時間は他者との関係性や相互作用から「起こるもの」という話をした。

ph.nowandhere.jp

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そう考えると「時間」と同じく「世界」もそうなのだと思う。

世界も本当は無い。

世界も、自分と他者との関係性の中で起こるものなのではないか。

自分と他者との相互作用があって初めて世界は輪郭を表す。

自分と相互作用が起こらないところにやっぱり世界はない。

どんなにインターネットが発達して、世界中の情報が手に入るようになっても、自分と相互作用が無いところに世界はやっぱりない。

宮台真司氏の「日本の難点」を読んで、納得したことがあった

「コミットメントの恣意性」は、「境界線の恣意性」については百も承知の上で、 如何 にして境界線の内側へのコミットメントが可能になるかを探求することが大切
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昔は、世界が狭かった。 今みたいにインターネットも無いし、移動のコストも高かった。だから、生まれたその場所がほぼ世界のすべてで境界線は割と明確だった。

その境界線を越えることは覚悟がいることだった。
なので、その世界で生き抜くためのコミットメント度も高くなる。

しかし、今は移動のコストも情報収集のコストも格段に下がり、
世界を形作る境界線は曖昧になってきた。

嫌になったら移動すればいい。
嫌になったら関係を断てばいい。

そうやって別の場所で十分生活していける。

つまり、「その場でのコミットメント度」は低くなる。

世界が、自分と他者との関係性や相互作用から起こるものと考えるなら、

「わたしたち」という範囲の境界線も曖昧な世界になってきたということだと思う。

このような中で、自分にとっての「わたしたち」ってなんなのか?そして、その「わたしたち」にどれだけ自分がコミットメントするのか。

この事が大切なのだと思う。
それを宮台真司氏は、

「コミットメントの恣意性」は、「境界線の恣意性」については百も承知の上で、 如何 にして境界線の内側へのコミットメントが可能になるかを探求することが大切

と言っている。

そのうえで、「わたしたち」と決めた範囲を超える人とどう折り合いを付けていくのかということだと思う。

佐藤優氏・橋爪大三郎氏の著書「あぶない一神教」の一節では、
エルサレムに関して以下の説明がされている。

キリスト教ではカルケドン派の主流派のキリスト教があり、さらに正教とカトリックプロテスタントのそれぞれの教会があり、また非カルケドン派コプト教会も、アルメニア教会もある。
 
もちろんユダヤ教の会堂であるシナゴーグも、イスラム教の礼拝堂のモスクも併存している。
  それぞれの地区に棲み分けがなされているわけですが、エルサレムで宗教的な紛争が起きたのは一九四八年のイスラエル独立以降です。
 
それまではみんな併存していました
  なぜ、争いが起こらなかったか。橋爪先生がお話ししたように自分と神様との存在にしか関心がないからです。
だから、ほかの宗教の教義には関心を持たない。
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各宗教間で棲み分けをしてこれた事実があるのだから、 できないことはないのだと思う。

絶対正しい生き方も、絶対幸せな人生もない。

全ては、自分と自分と他者との関係性の中で立ち上がる世界に、
どうコミットメントするかにかかっている。

世界の境界線は曖昧になった。
こういう生き方が幸せな生き方というロールモデルもなくなってきた。

自分にとって何が幸せで、自分にとっての「わたしたち」の範囲がどこで、その範囲の中でどうコミットメントするのかが問われてる。

コロナ以前の日常に戻りたいとは思わない。別の日常を作りたいと思う。

もちろん、コロナ以前の日常に戻りたいと思う人もいるだろうし、そのことを否定しない。

どちらもいたっていいし、どちらが正しいも間違ってるもない。

あるのは、自分と他者との関係性、相互作用から起こること(自分が決めるわたしたちの世界)をどう受け入れるか。そこから自分がどう行動するか。

自分だけで生は成り立たないから、自分勝手はなしだけど、「わたしたち」の世界で立ち上がる事に対してどう処すか。

それを自分で決めればい。
「わたしたち」以外の世界の言うことは、気にしなければいいのだから。