子育て×哲学×社会学「この青空を、君へ」

父から息子へつなぎたい思想

人間的自由の条件-ヘーゲルとポストモダン思想-の要点引用ちょっとずつ

更新履歴

2022/09/15
近代の人間本質――「他者の欲望」と「普遍的承認ゲーム」

第一章 資本主義・国家倫理 『トランスクリティーク』のアポリア

資本主義というアポリア

カントの「物自体」について

カントはよく知られた先験的宇宙理念のアンチノミーを提示したあと、このアポリアの見事な解明を行っている。彼はほぼつぎのように言っている。

世界は無限か有限か。自由はあるのか。事物は最小単位をもつのか。また必然的存在はあるのか、ないのか。こうしたことについての「世界」説明はなぜアンチノミーに陥って不可能となるのか。なぜ、対極の命題が現われて、解決不可能という現象を必ず引き起こすのか。その理由はつぎのように考えればいい。

この問題の核心に「物自体」を置くわれわれ(カント)の立場からは、問題の本質は明らかである。そもそもわれわれの「経験」というものは、「世界それ自体」にまでは、つまりその一切合切にまでは決して及ばない。これは経験なるものが感性形式に限定されているという本性からくる。ところで、理性の本性的能力は〝推論"の能力である。それは「経験」を統合する悟性の能力をはるかに超えて越権し、与えられている現在の与件から、その因果の系列をどこまでも遡行し、ある完結性や全体性にまでゆきつかないと決してとどまろうとしない、という本性をもつ。この理性の本性がアンチノミーを必然的にする。

たとえば、一方で、「世界は起点をもつ」という世界表象は、理性に、世界の時間を遡行してそれがある時点(起点)で完結することの必然的な説明を与えない。さらに、この起点はいかにして生じたかという問いが、推論する理性の権利的問いとして必ず現われるからである。もう一方で、「世界は無限である」という世界像も、世界の完結性や完全性の像を作り出せないから、理性をして、その先はどのようになっているか、という果てのない問いを生み出させるのである。こうして、世界は無限であるという答えも、有限であるという答えも、理性の推論の能力にとって、一方は広大すぎ、一方は狭すぎることになる。だから、いずれの答えも決定的解答にならない。

しかしさらに注意すべきことがある。それは、この二つの答えは単に等価というだけではなく、必ず対立的に分極する必然的な理由をもっているということだ。この理由も解明することができる。

正命題(=世界は有限。最小単位はある。自由はある。必然的存在はある)と反対命題(世界は無限。最小単位はなし。絶対的自由はない。必然的存在もなし)の系列を眺めてみると、正命題が「独断論」の性格をもち、「反対命題」が「経験論的懐疑論」という性格をもっていることが分かる。われわれは世界とは何かと問われると、とりあえずどちらかの立場に立ってしまうのだが、それには理由がある。つまり、両者の答えにはそれぞれの動機(=「関心」)があるのだ。

「世界は有限、最小単位も自由もあり、神もいるに違いない」と考えてしまう傾向の人は、まず心根の正しい、性格のまっすぐな人だ。彼は世界に親和性をもち、人間の善と信頼、自由と道徳を信じて”いる。彼の世界像は、世界についての調和と完結性を求める。このような人の世界像は、世界の有限、最小単位、自由、そして神の存在を要請せずにはいない。つけ加えると、この世界像は、「常識的」な世界像であり、良識あるたいていの人は世界をそのようなものとして理解しようとする。

これに対して、反対命題を主張する人は、逆に、人間と世界についての完結された調和や秩序の像に対して、違和感をもっている。彼は人間世界の常識的な善や道徳を信じず、その代わりに人間の思弁や理路の能力に重きをおく。だから、理論的、思弁的には、常識的な独断論より彼らの経験論的懐疑論のほうが優位にあることを認めないわけにいかない。「常識は、たびたび使用することによって自分に慣れてしまったことを、すでに知っていると思いこむ」にすぎないからだ。人間の「常識的」世界像は、まさしく「独断的性格」をもち、哲学的思考としては経験論に一歩を譲るのである。

しかしながら、もし世界が経験論者たちの言うとおりのものであるとすれば、人間は苦境におちいるだろう。たとえばわれわれには自由などないという考えは、人間の道徳的根拠を脅かすものとなるからだ。彼らの所説は人間不信にさせる。つまり、経験論は人間の道徳的

未来の他者とは誰か

「他者」の原理と超越項

資本主義への根本的懐疑

正当性と相互承認

「自由」 批判の逆説

資本主義への対抗原理

反システムとアソシエーション

近代社会とルールゲーム

第二章 絶対知と欲望―近代精神の本質

ヘーゲルと絶対精神の体系

コジェーヴヘーゲル論と現代思想

精神現象学』と近代の人間―行為する「理性」

ハーバーマス―「主観性の哲学」と「対話の哲学」

近代の人間本質――「他者の欲望」と「普遍的承認ゲーム」

コジェーヴヘーゲル解釈の中で最も重要な意味をもつのは、はじめに挙げたヘーゲルに おける人間的欲望の本質論であって、それは「人間の欲望は、他者の欲望をめがける自己欲 望である」というテーゼで要約することができる。 コジェーヴの主張をもう一度確認してみる。

ヘーゲルは『精神現象学』の全展開を支える土台として、人間存在の本質をその「欲望」の独自性において捉えるという出発点を置いた。

人間の意識は「自己意識」だが、自己意識 が存在するためには、欲望が「非自然的な対象」「所与の実在を超えた何物か」に向かう必要がある。

そしてこの「実在するものを超える」何かとは、じつは「欲望」それ自身、つまり「他者の欲望」以外ではない。人間の欲望は自然対象から離れて「自己自身の自由」をめがけるが、この欲望の実現を保証しうるものは「他者」だけである。

人は「他者の承認」を介してしか「自己意識」の欲望を実現することはできないからだ。この事情は、また、人間の「欲望」の対象をも本質的に規定する。

すなわち人間は自己自身のありようを「他者の欲するところのもの」へと向けようとする。このことが人間存在の根底的な基礎であるかぎり、人間社会は、「欲望として相互に他を致し合う欲望の全体となって初めて人間的」なもるだけでは足りず、各自の欲望が相互に他に向かうという関係の場面を構成する。

それが人間存在についてのヘーゲルの基本理論である、とコジェーヴは主張する。ここはたいへん鮮やかなところである。

p126

精神現象学』と近代思想の本質―「精神」について

「妥当要求」と「自由の相互承認」

「正義」とは何か――ロールズの『正義論』

「道徳的意識」と「良心」――近代思想を超えるもの

第三章 人間的自由の条件

1 マルクス、「後方への回帰」

ヘーゲルマルクス、「国家論」の発見

イデオロギー」というアポリアアルチュセールマンハイム

ヘーゲルの「善と悪」――近代的「良心」の挫折

「イロニー」と現代――フーコーの社会批判

「自由」「革命」「権力」――アレントと「暴力」

「公的空間の創設」――アレントと「自由」

「自由」とはなにか――人間的な創造の空間

「自由の相互承認」の社会学的転移

学術文庫版あとがき