カントは、「物自体」という概念をおき、
人は、「経験」を超え出た認識は不可能。
つまり、世界それ自体(物自体)を認識することは不可能と言った。
人間は、「経験」を超え出たところは「推論」するしか無いが、
「物自体」は認識できず、議論のスタンスは、2つの方向に集約されてしまうという。
一方向は、「独我論」に
もう一方向は「懐疑論」に。
独我論者は、世界は有限。最小単位はある。自由はある。必然的存在はある
と言うし、
懐疑論者は、世界は無限。最小単位はなし。絶対的自由はない。必然的存在もなし
と言う。
どちらも推論の域を出ないし、証明できない。
なので、「理想理念」から議論を出発させると、必ず、信念対立に陥いる。
であるならば、正当性の「原理」をその時代、その環境、その社会に置いて設定し
「この件に関してはそう考えざるを得ない」という所まで磨いて、社会ルールを設定し、
運用する必要がある。
徹底的に理性で鍛え上げた「原理」を正当性の根拠とし、その原理に基づいた「実践」を行う。
正当性の根拠を「理想理念」におけば、信念対立が起こる。
正当性の根拠を「原理」においてその限りにおいて「実践」への批判をおこなう。
そういう社会の回し方が次の時代に求められている。
竹田青嗣氏の「哲学は資本主義を変えられるか」にそのヒントが書かれている。
われわれはここで、一つの重要な選択肢の前に立っている。
われわれは新しい「物語」を設定する必要に迫られているが、
それは
「理想理念」としての「物語」ではなく、
現代社会と資本主義の「正当性」の理論である。
つまりそれは、
世界はかくあるべきという特定の理想の「物語」ではなく、
世界が少なくともこのようなものであるなら、それについては誰もが納得するほかないといった、
合意の普遍性の理論にほかならない。
『哲学は資本主義を変えられるか』P282