子育て×哲学×社会学「この青空を、君へ」

父から息子へつなぎたい思想

「答えのない問い」を「答えを出せる問い」にすることを考えることも大切

9月12日に誕生日を迎えました。

人生には、「答えのない問いを問い続けられる力」が必要ということを大切に生きてきましたが、それも大切であると考える一方で、「答えのない問いをどうしたら答えの出せる問いに変えることができるか?」ということも挑戦しがいがあるかもしれないと思った誕生日でした。

  
カントが言うことにかなり解釈を入れて言うと
人間の「経験」の域を超えた認識をするには、
「推論」するしかなくて、
推論をしていくときの立場は、突き詰めると2つの立場に集約されてしまうそうです。

一方は、独断論的立場
一方は、懐疑論的立場

独断論者は、世界は有限。最小単位はある。自由はある。必然的存在はある
と言うし、
懐疑論者は、世界は無限。最小単位はなし。絶対的自由はない。必然的存在もなし
と言う。

独断論者は、答えは出せる。唯一絶対の答えを。
と言うし、

懐疑論者は、答えなんて無い。人の数だけ答えがある。
と言う。

生きていると、どうやら「唯一絶対の答え」というのはなさそうだけど、だからといって、「人の数だけ答えがあるよね」を手放しに認めてしまうと、すべてのことは等しく正しいということになるので、「等しく正しい」訳なんて無いじゃんとも思う。

独断論に陥ると、俺が一番正しいと、信念対立を生みつづけるし
懐疑論に陥ると、みんな正しいんだからと、物事が前に進まない。

社会を回していくには、
その2つの立場を調停し続けなければいけないのだと思う。
そのためには、徹底的に考えて、どの立場の人も、
「そのことに関してはどうやらそう考えざるを得ない」
と納得する合意形成をし続けることが必要なんだなと思います。

一見、答えの出せない問いを
独断論にならない仕方で
手放しには認めない仕方で
対話を通じて、条件設定をおこない、
答えの出せる問いに変更していく。
 
この営みを人生の後半の自分のスタンスに置いて生きていこうと思います。

20代の頃は「理想理念」が全てでした。
理想理念を掲げて、そこに向かって邁進することが正しい生き方だと思っていました。
でも、理想理念を正当化の根拠に置くと、必ず信念対立が起こるし、その理想理念にそぐわない人は、無視か排除か洗脳か服従させるしかない。

誰かが言っていた、
「誰一人、おいてけぼりにしない」
という言葉。
その言葉に僕も共感します。

それをやろうとするならば、「理想理念」を正当化の根拠におけないことに気づきました。

一回限りの人生を誰もが生きている。
一回限りの人生を誰もが生き尽くしたいと思っている。
ただし、手放しに自由な生き方は許されない。
他人の自由を尊重しつつ、自分の人生の自由を最大限生き尽くす手だて。

それは、「理想理念」を追い求める仕方ではなく
目の前を生きる他者との「現実的な合意の積み重ね」の中から生み出される。

その思いに至った誕生日の夜

この世界が
すべてのこども達にとって、生き尽くすに足る世界であるために。

これからもどうぞよろしくお願い申し上げます。