子育て×哲学×社会学「この青空を、君へ」

父から息子へつなぎたい思想

「何不自由のない暮らしだなだけど何か満たされぬ」の正体は何か

GLAYpure soul の冒頭の歌詞
20代の僕に響いた歌だった。
何度も聴いて、何度も歌った。

何不自由のない暮らしだな
だけど何か満たされぬ
 

そんな夜もあるだろう
そんな夜もあるだろう
 

何を恐れているのかもわからず
街を飛び出した
 

必死でつかもうとしている
栄光は大きな意味を
明日に投げかけたとしても
望まない結末もある
 

繰り返す暮らしの中で
避けられぬ命題を今
 

背負って 迷って もがいて
真夜中 出口を探している
 

 

手探りで

人は誰でも「生きづらさ」を感じるものだろう。
僕も幼少の頃から生きづらさを感じてきた。
一方で、自分は恵まれている人間だという自覚もあった。
 
祖父によく言われた。
「お前はよい星の元に生まれた」
 

それを本気で信じていた(今も信じている)。
 

父親からはよくこう言われた。
「男とは、強さとやさしさだ」    

 
よい星の元に生まれた、強くてやさしい自分
 

という理想像が常に傍にあったと思う。
現実的にもその理想像にある程度沿った人生を歩んできたようにも思う。

ただし、常に理想と現実のギャップには苦しんできた。

体格に恵まれ、学力も東京六大学に入れる程度には持ち、
就職も転職もそれなりにやりたいようにできて、起業も経験している。

結婚もして、こどもも生まれて、いいパパと呼んでもらうこともある。
側から見たら、恵まれた人と映るであろう。

でも、やっぱり生きづらい。

もしも世界が100人の村だったら。
アフリカのこども達に比べたら。
上には上がいるが、下にも下がいる。
足るを知れ。
 

いろんな言葉で、方法で自分が恵まれた存在であるから、
世のためにその力を使えと自らを奮い立たせてきた。
 
 
でも、そんなデータ僕のこの感情の前では無効なんだよ。
 
 
「生きづらい」と感じているこの感情は、疑いようのない僕にとっての真実でしょ?

この感情に蓋をせず、正対し、向き合って、和解していくにはどうしたらよい?

「実存」という言葉と出会う。

人間は誰も決して他人と交換できないただ一度切りの生しかもてず、そのため自分の内部だけで処理しなくてはならない固有で絶対的な課題を負っている。キルケゴールが示した人間のこういった契機を、わたしたちは〈実存〉という言葉で呼んだ。
 
〈実存〉とは、最終的には絶望を底板として抱えている人間の生のこの根本条件のことなのである。
 

〈実存〉という概念は、人間はどのように生きようと、最終的な問題の解決にも目的にも 決して達しないものとして自分の生を持っているということを告げている。
 

いずれも『現代思想の冒険』(竹田青嗣先生)より引用

見田宗介先生の書籍のこれらの言葉に惹かれた

社会学を仕事としようとしたときに最初に思ったのは、
社会というものを、上流、中流、下層とか、資本家階級と労働者階級とか、都市と農村というように、構造としてとらえることももちろん大切だけれども、
それよりも根本的なところで、社会というものを、一人ひとりの人間の、切れば血の出るような〈人生〉のひしめきとして把えたい、ということでした。
一回限りの人生を生き尽くしたい。

実存論の視点から言えば、
人は一回限りの人生を生き(一回性)
誰とも交換不可能(非連続性)
だからこそ、生きている限り、この生を生き尽くしたいという欲望を持つ。
 
○○世代とか、○○社会とか、分析的に僕のこの人生を捉えてくれるな。
 
世の中の現実がどうであろうが、今、ここを生きている僕は、生きづらいんだ。
 
現代の欲望の矛先は、他者の欲望へ向く。

他者と比べて持っている。
他者と比べて優位にある。

このことによる感情で、実存は満たされるのか?ある程度満たされることもあるだろう。ただ、満たされ続けるのだろうか。
おそらくこの辺りに自分の感じる「生きづらさ」の根があるように思う。

ひとは、自分が現にある社会の枠組の中で、それなりに目標と意味を見出して生きる限り、あえていままで自分が持っている〈世界像〉を一から考え直してみる必要はない。  
ひとが深い意味で思想を問題とせざるを得なくなるのは、自らが抱えている一般的な〈世界像〉やその価値観そのものが、どうしても自分にとって和解し難いものと感じられるような場面においてである。
 
思想は、人間が自分のうちに抱え込んでいる一般的な〈世界像〉に対する違和の意識から発し、この〈世界像〉や価値観に対する意識的な抗いの行為である。

こちらも『現代思想の冒険』より。

そして、見田宗介先生の『現代社会の理論』の一節に涙が出る。
こんな論考で涙が出るなんて、病みすぎだ(笑)

自然解体的でなく、他者収奪的でない仕方の生存の美学の方向に、欲望と感受の能力を転回することもまた可能なはずである。

ふと見上げた青空に心奪われたり
人のやさしさに心が癒されたり
こどもの無邪気さに心が洗われたり

こういった純粋経験の領野は、
自然解体的でもなく、他者収奪的でもなく、この実存の欲望を満たして、幸福感で包んでくれる。

欲望の矛先を他人との差異に向ける必要はない。

それでも、目を横に向けると、自然解体的、他者収奪的な仕方で実存を満たそうとする人たちもいる。これらの人たちとどう和解していけばよいのか。

一回限りの、交換不可能な、非連続性の存在であるが故に、
この生きている間に少しでも多くの欲望を満たしたいという本性がある人間達が、
自然解体的でもなく、
他者収奪的でもない仕方で「実存」の「欲望」を満たせる人生をすべての人が志向する。

その道筋を示すことができたなら
この僕の生きづらさとも和解できるのかも知れない。

GLAYpure soul の2番のサビでいったんしめよう。

愛は愛のままじゃいられず
いつか形を変えるだろう
 
共に生きる家族恋人よ
僕はうまく愛せているのだろうか
 
よくできた解答の果てに
悩みぬく世の中はなぜ?
 
平凡で手アカのついた言葉でも
愛してると伝えてほしい


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