2016年に『幸せになる勇気』読んだ。
「嫌われる勇気」を読み、その続編として興味を持って手に取った。
人間の抱える最も根源的な欲求は
「所属感」
孤立したくない、
「ここにいてもいいんだ」と実感したい。
そう実感したいために、特別な地位を得たいと欲する。
「その他大勢」にならないようにする
では、他者から承認されていくことで、その所属感を満たしてく事が、正解なのかと言えばそうではない。
承認には終わりがなく、際限なく求める
永遠に満たされない人生を送る
怖い言葉だ。
「わたし」の価値を、他者に決めてもらうこと
それは「依存」
と呼び、
「わたし」の価値を、自らが決定すること、
それを「自立」
と呼ぶ。
普通であることの勇気を持ちなさい その他大勢としての自分を受け入れましょう
そんな…。
普通であることなんて嫌だ、人と違うことをして生きていきたい。そんな人生観だった自分にとっては、衝撃的な文章だった。
ふと、自分の子供時代の父親からの言葉を思い出してみました。
小学生:一つでも人に負けないものをつくろう
中学生:むしろ鶏口となるも牛後となるなかれ
高校時代:文武両道。頑張ったかどうかは他人が決める。数字は嘘をつかない。
このように、常に成長、より高みへ、競争に打ち勝つ!こんな人格形成がされてきた気がする。
人と違うことがしたい、その他大勢なんて嫌だ。
人と違うことが個性だ。
そうやって生きてきた気がする。
一方で、こんな言葉もたくさんもらった。
あなたは、自分以上でもなければ、自分以下でもない。
上を見てもきりがない、下を見てもきりがない。
真剣になることは大切だが、深刻になってはいけない。
自分の人生は自分で決めなさい。
私の記憶では、親から勉強をしなさいと言われた記憶が無い。
自分が決めた進路、就職先に関してとやかく言われた記憶もない。
自分で決めたのなら、後悔のないようにしなさい。
そう言われてきた。
これらの言葉をもらっていながら、
やはり人間というのは、
見たいものだけ見て、聞きたいことだけ聞いて、理解したいように理解する。
アクセルを踏む言葉ももらえば、
ブレーキの言葉ももらっていた。
が、アクセルにばかり焦点が行ってしまってるんだな。
大学院に入って、先輩、同期、後輩とすごい人達にであって、「自分は何者でもない」と認識した。
だから、まずは大風呂敷など広げず、目の前の事に心を込めようと思った。
が、まだまだその他大勢になりたいくないというもう一人の自分は出てくる。
この思いは消せないと思うので、どう折り合いをつけていくかが次なのだろうな。
アドラー心理学の中に、課題の分離という言葉がある。
相手が自分をどう思うかは、相手の課題。
それを気にしても何も始まらない。
自分の価値は自分で決める。
相手が自分をどう評価しているのか、それは気にしても意味が無い。
「人と違うこと」に価値を置くのではなく
「わたしであること」に価値を置く
「わたしであること」の結果、その他大勢と同じであるならそれでいいよ。
「人と違うこと」を追求して、「わたしであること」が蔑ろになるのであれば、それは間違いだよ。
そう、君に伝えたい。