どうやら、学校教育の課題は、知識の伝達の比重が大きすぎて、新しい知識を生み出す思考法の訓練は足りていないようだ。
クレイグ・アダムス氏の「賢い人の秘密」を読んだら、外山滋比古氏の「思考の整理学」のこの一節を思い出した。
われわれは、花を見て、枝葉を見ない。かりに枝葉は見ても、幹には目を向けない。まして根のことは考えようともしない。とかく花という結果のみに目をうばわれて、根幹に思い及ばない。
知識も人間という木の咲かせた花である。美しいからといって花だけを切ってきて、花瓶にさしておいても、すぐ散ってしまう。花が自分のものになったのでないことはこれひとつ見てもわかる。
「賢い人の秘密の一節」
教育とは、研究法を教えるものであって、研究法から導かれた知識を教えるものではないはず(3455)
アリストテレスの構想した教育は、思考を出発点として、知識を見つけるために思考法を応用する、という順に進む。
しかし、今日のカリキュラムは、順序が逆だ。各分野の知識を中心に学習を進め、そのうち手法も理解できるだろうと期待する。(3451)
教育の目的は、知識を授けることではない。学問の真価は思考法にあるということを、生徒に教えるべきなのだ。(3436)
思考の整理学にも同様の記載がある
人間には、グライダー能力と飛行機能力とがある。受動的に知識を得るのが前者、自分でものごとを発明、発見するのが後者である。
両者はひとりの人間の中に同居している。グライダー能力をまったく欠いていては、基本的知識すら習得できない。何も知らないで、独力で飛ぼうとすれば、どんな事故になるかわからない。
学校はグライダー人間をつくるには適しているが、飛行機人間を育てる努力はほんのすこししかしていない。
確かに、この課題があるから、文科省は「生きる力」というテーマを掲げ、「知」にかんしては、
基礎的な知識・技能を習得し、それらを活用して、自ら考え、判断し、 表 現 す る こ と に よ り 、さ ま ざ ま な 問 題 に 積 極 的 に 対 応 し 、解 決 す る 力
と定義しているのではないかと思う。
では、その「思考力(法)」とはなんなんだ?ということが、疑問になる。
みな、自分の行動を間違えたくない。という思いがあり、そのために思考力を鍛えたいとか思考法を身につけたいとか言うのだろう。
人間の思考の特徴の一つに、類推して考えるというものがある。
未経験、未知のものに遭遇したときに、今までの経験や知識を使って、似た様な状況はなかったか?と共通項を見出して、判断して、行動できるのが人間が他の動物と違う能力だそう。
この能力は秀逸だが、エラーを起こしやすい。たとえば、
①その共通点は実は判断にはまったく関係なかった。
②相関関係はあっても因果関係がなかった。
その特徴は完全にコーンフレークやないかい!と言いながらも、まったくコーンフレークではないという事が多々あるという事だ。
思考の起こしがちなエラーにどういうものがあるかを学べば、そのエラーを回避しながら、思考力の本来の力を発揮できるという事だ。
どんなエラーを起こしがちか?. 様々な研究がされているので、それを学ぶと、思考力を鍛えるとか思考力を身につけると、なんとなくわかっていようでわかっていない「思考力」とは何かを捉えることができると思う。
長くなったので、また別の機会に。