子育て×哲学×社会学「この青空を、君へ」

父から息子へつなぎたい思想

【読書レビュー】この人生に意味はない、だからこそ

「真理の探究」を続けて3回読んだ。
かなり、思考がぐるぐる回っている。

真理の探究 kindle

仏教は、本来的に意味を持たない自分の人生を、自力で意味づけしていこうという宗教
P146


現在の科学的世界観の世の中で生きる私たちは、そういった自分の死後にとって都合よく組み上げられた死生観の実在性を信じることができないという点にあります。 そしてそういった絶対者、救済者の存在を信じられない人にこそ、釈迦の仏教が説く
「誰も生きる意味を与えてくれない世の中で、絶望せずに生きるためには、自分の力で生きる意味を見つけていかねばならない」
という教えが意味を持ってきます。
P160


人生の意味や普遍的な幸福を宗教に求めるのではなく、自ら意味や幸福のあり方を見つけていくべきだとのお話は、現代に生きる私たちにも納得できる考え方だと思います。
P164


この人生の意味は何だ?価値はなんだ?と問いながら生きてきたけど、
数年前に、「この人生に意味はない」と確信した。

逆にだからこそ、すべての可能性は等価なんだと思えるようになり、
いろいろなことに挑戦してその中から芽が出たものをより深めよう、
その選んだものすら、その時興味があるに過ぎないという思いも残しながら、
常に他の可能性に目を向けておこうと思えるようになった。

そして、人生の意味とか価値とかは、自分の外側に求めるものではない。
自分の内に見い出す他ない。

ただ、自分の思考は常に間違えるリスクがある。
なので、なるべく正しく、世の中を認識できるように自分を鍛えたい。
世の中を正しく認識するその方法論が哲学や社会学の中にありそうだと思って、哲学や社会学を独学している。

僕の人生の転換点となった真木悠介の「気流の鳴る音」にこんな一説がある。

 カスタネダはなぜ(生きながら)幽霊なのか?  それは魂がここに無いからだ。  彼らは道を通っているが、その道を歩いてはいない。   kindle版p113要約()は私が補足。

人生という道自体に意味はない。
そのまま生きれば「通る」だけだ。
だけど、自分なりにその道を「歩め」ば、そこに人生の意味を見出せるかもしれない。

僕は、師匠を尊敬していて、いろいろな事を学ばせてもらったが、
「使命」と書いて、「命を使う」と読むという解釈に関しては、別の解釈を取りたい。
「使う」と読むと、どうしても命が道具的なイメージを帯びる。

使い方の評価が入る。

うまく使えているのか?

この使い方間違えていないのか?

その評価基準が経済合理性の資本主義どっぷりの価値判断基準で評価されるとなると、
多くの人には苦しみしか生まない。

やはり、命は生きるものだと思う。

そして、読み方を変えて、「使わされた命」と読めば、この世に「生きよ!」と命じられ使わされたのみで、
あとは、自分で考え、判断し行動することになる。

基本人生に意味はないが、どうしても意味を求めてしまうのが人間の性であるなら、
正しく世の中を認識し、自分の道を歩めばいい。

そして、自分の道を見出して歩めるほど強い人ばかりではないのも現実。
だから、強い人、強く生まれた人が、弱い人にも手を差し伸べて、みなで一度きりの人生を生き切ればいい。

真理の探究を読んで、釈迦の原始仏教の考え方を知り、共感することがとても多い。