社会学者のマックスウェーバーが、「価値自由」と言って、事実と価値を分けよと言った。
唯識仏教では、阿頼耶識に事実が溜まり続け、そこには善も悪もなく、その事実に価値や意味づけをしようとするのは、末那識だと言う。
哲学者のフッサールは、判断を一時停止して、ありのままの現象を記述することが正しく認識するための手法といった。
ただ、事実がある。
それに価値付けしたり、意味を見出したり、判断するのは人間。
師匠の田坂広志先生から、「腐敗」と「発酵」の違いは、人間に有用かどうかだけだと教わった。中で起こっていることは同じだと。
見方が変われば、世界は美しくも、残酷にもなる。
量子力学では、電子や光子のような粒子は観測されるまでは「波動関数」という確率的な広がりの中に存在していて、観測という行為によってその波動関数が特定の値に収縮し、初めて位置や状態が確定するという。
事実も、いろいろな可能性が広がっていて、観測者が、解釈して事実が価値を帯びて確定するということなのか?
幸せとか不幸とか、 楽しいとか辛いとか、 安心とか不安とか、
解釈次第である部分が大きいのかなと思う。




