「自信がある」と「自分を信じる」
どちらも、 「自」「信」を、使うが意味がまったく違う。 「自信がある」と「自分を信じる」。
どちらも「自」と「信」という文字を使うが、その意味はまったく違う。
過去の延長か、未知への賭けか
「自信がある」とは、これまで積み重ねてきた経験や力をもとにすれば、想定内のことならできると思えること。 つまり、過去の延長線上で未来を見通す感覚だ。
一方、「自分を信じる」とは、まだやったことがないこと、いまの力でできるかどうかもわからないことに対して、それでも「自分ならできる」と、その可能性に賭けることだ。
ここまでは、これまでも考えてきた。
しかし、ここ最近、さらに思考が推し進められてきた。
「自分」という不確かなものを超えて
「自分」なんてものは本来ないという前提。 ただ、事実だけがあり、その事実には善悪も良し悪しもない、価値付けしているのは自分だという前提に立った時、
「自分を信じる」とはどういうことなのか?
それは、自分の能力を信じているというよりは、自分の発する言葉や行動――それは、自分だけの言葉でも、自分だけの行動でもなく、何かによって突き動かされているという感覚を含む言動――で生きていく時に、
その結果がどのように転んでも、そこには善悪も良し悪しもないのだから、すべて受け入れて前に進むのみだ
という心構えで、生きていくことなのではないかなと思う。
【補遺】結果を天命に全託する「先憂的楽観主義」
この記事で触れた「結果がどう転んでも受け入れる」という境地は、単なる諦めではない。それは、自分の力を超えた大きな流れ(他力や運命)に対する信頼に近いものだ。
LUTENのValue(行動指針)にある「先憂的楽観主義」もまた、この姿勢に通じている。
包摂 - 先憂的楽観主義 結果に対して手放しの楽観はしない。憂いを先取りし、尽くせる手を打った上で、結果を天命に全託する。
「自分を信じる」とは、自分の能力への過信ではなく、人事を尽くして天命を待つという、静かな覚悟のことなのかもしれない。
また、「事実には善悪がない」という視点は、以下の記事でも詳しく触れている。
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