使命の呪縛と「生きづらさ」の根源
30代の頃、「この命、何に使うか?」とよく自らに問いかけていた。
結婚や子育てが始まり、独身の頃のように全ての時間を仕事に捧げられない生活になったとき、「自分の命の使い方はこれでいいのだろうか?」という内面的な葛藤に苛まれだす。
この問いは、 社会という「構造」の問題、 他者という「関係」の問題、 自分という「内面」の問題 に集約される「生きづらさ」の根源に繋がっている。
「使う」という言葉の中に、評価が前提され、評価の中に価値が前提され、価値の中に、経済的合理性が前提されている――
この感覚こそが、従来の「使命観」に対する違和感の正体だった。
自分の命を、成果や費用対効果によって測られる「資源」として捉え続けてしまっていることに気づく。
命は「資源」ではなく「動的平衡」である
命は、モノや資源ではない。
自分の外にある所有物でもない。
生命は常に生成変化し続けているもの。
生物学者の福岡伸一氏が指摘するように、命は「動的平衡」の中にある。
この「生命の絶え間ない流れ」という「コト」としての実在論に基づけば、命は計測や評価を前提としないはずと思う。
命は、 - 評価を前提としないもの - 価値を前提としないもの - 計測を前提としないもの
もちろん、資本主義社会で生きる以上、成果や効率を追求する局面はある。
しかし、そこだけが人生のすべてだと設定してしまうと、失敗や挫折、敗北を目の前にしたときに、僕たちは、何を拠り所として自分の心を支えるのか。
「使命」の再定義:使わされた命を「ただ生きる」哲学
私は、使命を「命を使う」とは読まない。
それは、単なる「使う」という言葉が、人生を「未来の目的のための手段」とみなし、「今、この瞬間の充実」を損なうことにつながりかねないから。
代わりに、天から「使わされた命」と読みたい。
この世に「生きよ!」と命じられた命を、評価や計測に縛られずに「ただ生きる」というメンタリティを持つこと]。
この「ただ生きる」という姿勢は、何かにすがる「なんとかなる」という楽観主義とは異なる。
これは、困難を乗り越えるために「不断の努力をする」ことを前提とし、結果がどのように転んでも、そこに善悪も良し悪しもない「事実」だけがあり、すべてを受け入れて前に進むのみだという心構えを意味する。
自分が納得した人生しか、生きられない
人生に意味や普遍的な幸福がなくても、「それでもなお」意味や価値や使命を見出したいと願うのが人間です。
この衝動こそが、一回性の生における「強度」(生の実感)を追求する行為となり、他者との関係性の中でしか得られない生の充実へと導く。
そして、君へ
未来の理想のために今を手段化しすぎず、「今、ここで」に心を込めて生きること。それが、結果的に縁へとつながり、君の人生を切り拓いていく道となるよ。
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