5歳のこどもから質問を受けたとき、詩的・物語的に答えるか、科学的に答えるか、いやどちらかではなく、どちらもこたえようかとその時々で考えるが、やはり、なんで?なんで?を突き詰めると、最後は科学的知では答えられない想像的知で答えざるを得なくなることに気づく。
昨日は、久しぶりに雷がすごかった。雷がまだまだ怖い息子。
カーテン閉めて!トイレついてきて!パパもリビングにいて!と、彼なりに雷に対応しようと考えているのがかわいい。
その時息子から質問をされる。
「どうして、雨はふるの?」
寝床で週の半分は本を読むが(その殆どは電車だ)
4歳ころから中学生の理科の教科書をつかって、宇宙や太陽や地球、天気や地震のページをなんとなく眺めて教えている。
夏に雷がなったときに、積乱雲ができるまでの「仕組み」を一緒に読んで、彼なりに理解したようで、じぃじばぁばや保育園の友達に積乱雲知っているんだ!と自慢もしていたようだ。
なので、あれ?忘れちゃったかな?とおもって、
「海の水がさぁ~。。。。」と一通り話したが、不満そうな顔で言ってくる。
「それはわかったんだけどさぁ、なんで雨はふらなきゃいけないの?雷はおちるの?」 と聞かれる。
あれ、「仕組み」じゃない。もっと根本的な理由が知りたいんだ。
これは困った。
そもそもなぜ雨は降るのか?
どうして降る必要があるのか?
一体何が雨をつくったのか?
息子の中にあるのはこの問いだ。
ここまで来ると科学の知では、答えようもなく、想像的知の出番となる。
それはやっぱり
「天使がおしっこしているんでしょう。どうしてって、したいものはしたいからみんなでここにしようっておしっこしているんじゃない?イタズラでここにしているのかも?」
と答えると、表情が明るくなり、
「そっか!そこに風神さまと雷神さまが風を吹かせて、雷をつくっているんじゃない?」と応戦してきた息子。
彼の中で納得がいったらしい。
それを聞いていた奥さん
「和洋のコラボだな!」とのツッコミ
ある本で、詩教育と散文教育は分けて、全く別物として行った方がいいと読んだことがある。
散文教育のコアは、「論理」だ。徹底的に論理的に考え、観察し、現実に即した仕方で、他の解釈の余地がなくなるように、論理を構築する。
一方詩教育のコアは、「想像力」だ。現実に囚われない自由な発想。一見繋がりないものにつながりを見出す力。
全く違う能力のものをごちゃまぜにして指導してしまうことが、国語教育の課題だという指摘は納得がいく。
既定路線、固定概念を超えるために想像力が必要だ。ただ、その想像は個人的な範囲のものなのか、ある一定の集団の中で有効なものなのか、普遍的に共感を得るものなのか。
社会で生きていくためには、その視点も必要だ。
手放しに、解釈は人の自由だ!と私は思わない。個人的に想像している分にはそれでよいが、人と生きていくにはそれだけではたりない。
その妥当性を確かめるために他者と議論する力が必要だ。
この点に関しては、現時点では、こう解釈せざるを得ないよねというところまで徹底的に議論する。 その時に必要な力が論理的な思考力だ。
つまり、現実を超えるために想像力をたかめる詩的な教育も、妥当性を議論するための論理的な思考力をたかめるための散文教育もとても重要だということだ。
息子の自由な想像力を尊重しつつ、社会でともに生きるための論理的思考力も身につけらえるような環境を整えてあげたい。