子育て×哲学×社会学「この青空を、君へ」

父から息子へつなぎたい思想

訂正可能性の哲学 ゲンロン叢書 by 東浩紀 Kindleハイライト

 

 

 

訂正可能性の哲学 ゲンロン叢書
by 東浩紀

ぼくはいまの政治は、世界的にも国内的にも、また古典的な政治においてもネットの争いにおいても、「友」と「敵」の観念的な対立に支配されていると考えている。

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したがって、その対立を抜け出すことが決定的に重要である。『観光客の哲学』では、その認識のうえで、「観光客的な連帯」こそが脱出の鍵となり、新たな連帯のモデルは「家族」に求められるという主張を展開した。

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観光客の哲学』では、観光客を、友にも敵にも分類できない第三の存在の比喩として用いた。

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家族への視線も大きく変わった。コロナ禍以前は、家族や「家」といった言葉は、リベラルの知識人にとってあまり肯定的に語られるものではなかった。彼らは、教育にしろ介護にしろ、家庭から公共へできるだけ責任を移行すべきだと主張していた。

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 この三年間、日本に限らず世界各国は、観光客に象徴される軽さ=開放性を否定し、家族に象徴される重さ=閉鎖性に回帰することで「感染症に強い」社会を構築しようと試みてきた。

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開かれているものは危険で、閉じられているものこそ安心といった二分法は、どこまで哲学的に妥当なものだったのだろうか。

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現代日本のリベラルを代表する社会学者、上野千鶴子の「おひとりさま」肯定論である。

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建築史家の本田晃子は、ソ連時代の住宅建築史を扱った『革命と住宅』で興味深い指摘をしている[ ★3]。本田によれば、革命後のソ連では、労働者を家庭から解き放ち、家事や育児などを国家によるサービスに置き換えるため、住居の設計が根本的に見なおされていた。

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本田の論考は「革命は「家」を否定する」という一文で始まっている。

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共産主義は私的所有を否定する。家族は私的所有の場そのものである。家族とは、「わたしの父」「わたしの母」「わたしの子」と、それぞれが私的な関係で呼びあう場所のことだからだ。共産主義が家族を壊し、個人と公共を媒介なく直結しようと試みたことは、論理的な必然でもあった。

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このような家族の否定の歴史は、社会主義共産主義を超えてさらに古く遡ることができる。

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そこではすでに、家族の存在が、私的所有や集団生活の問題と連動して否定的に議論されている。

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プラトンの議論はこうだ。人間は多様であり、能力が異なっている。それゆえ集団で生活し、生産物を交換して、相互の欠落を補うのが好ましい。そのようにして国家が生まれるが、それが大きくなると、こんどは国家を運営することに特化した人々、プラトンがいうところの「守護者」が求められるようになる。彼らをいかに選び育てるかが、国家の命運を決めることになる。

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ば、「国家の利益と考えることは全力をあげてこれを行なう熱意を示し、そうでないことは金輪際しようとしない気持が見てとれるような者たち」を育てるにはどうしたらよいか、

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そこで提案されるのが、守護者たちはすべてを公共に捧げるべきなので、自分のものと国家のものを区別しない環境で生活しなければならない、具体的には、財産をもってはならないし、固有の住居ももってはならないし、食事もひとりでとってはならないといった数々の禁止事項なのである。

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一九世紀半ばにマルクス主義が現れると、家族の忌避は現実の政策論にも影を落とすようになる。

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ハクスリーもオーウェルも、近代の思想のはてには家族の否定があると考えた。そのうえで、男女の私秘的で非公共的な恋愛を軸にして、そんなディストピアが揺るがされる物語を記したのである[

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 本論ではのちにハンナ・アーレントの『人間の条件』という著作に触れる。

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ひとことで要約すれば、私的な欲望を満たし、私的に行動するだけでは人間は人間であることができないと主張している。人間は公的な領域に関わるからこそ人間でいられる。私的な領域に閉じ込められていたのでは動物と変わらない。だから哲学者は公について考えねばならない。

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閉鎖的で排除的な人間関係とはなにを意味し、開放的で包摂的な人間関係とどのように違うのだろうか。

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 閉ざされた社会とは「呪術的ないし部族的ないし集団主義的な社会」のことである。

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プラトンの国家論は全体主義的で復古主義的であり、危険である。ポパーのこの批判は現実の政治とも密接に関係している。

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だとすれば、『国家』の理想国家論も、血縁に頼る古代的な部族への回帰ではなく、むしろ個人と個人の関係をもとに再構築される「新しい部族」の提案だったと理解するのが正解だったのかもしれない。

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ヘーゲルの哲学においては、国家は個人よりもまえに存在するのだ。

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ヘーゲルの国家論はつぎのような論理のうえに組み立てられている。彼は人間と人間の関係を「人倫」と呼ぶ。それは「家族」「市民社会」そして「国家」の三つの段階を通って発展するとされている。「

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 ヘーゲルはここでいちど、親密な「家族」と個人主義的な「市民社会」をはっきりと対置させている。そのうえで『法の哲学』は、いままでの哲学は両者の対立を乗り越えられなかったという認識を示し、つぎに「国家」をそれを乗り越えるものとして再導入している。

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ヘーゲル自身の言葉を借りれば「個人の自立性と普遍的な実体性とのとてつもなく大きな合一がそこで起きるところの精神」

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以上のふたつの例は、開かれた社会と閉ざされた社会、市民社会と家族、公的領域と私的領域といった対立そのものが、哲学的に考えるとあまりにも単純なものであることを示唆しているように思われる。

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その事態はつぎのようにも表現できる。プラトンは家族の外に出ようとした。ヘーゲルも家族の外に出ようとした。にもかかわらず、結果として構想された社会は、ポパーにはともに家族的なものにしかみえなかった。 家族の外にも家族しかなかった。この逆説はいったいなにを意味しているのだろうか。

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そのトッドによれば、人類の家族は大きく三つに分類される。「核家族」「直系家族」「共同体家族」である。

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トッドの研究は、そんな常識に反して、核家族こそがもっとも古く普遍的な形態であることを明らかにした。

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共同体家族は、歴史上のある時点でユーラシア大陸の中央部に誕生し、急速に拡散した新しい形態であるらしい。日本が直系家族の地域なのは、地理的に辺境で、家族形態の革新が届かなかったためだと考えられている。

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トッドによれば、漢の封建制度は「長子相続の廃止」と「兄弟間の平等」を原理としており、共同体家族の特性を反映している。

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たとえばトッドは同じ著作のなかで、「周時代に創設され最初の成功を収めた儒教は、典型的な直系家族イデオロギーである」と指摘している[

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共同体家族がもっとも新しいものなのだが、さらにそのなかで「外婚制」という特殊な性質をもつ家族形態の分布を調べるとおもしろいことがわかる。トッドによれば、じつはそれは、二〇世紀に共産主義国家が成立した、あるいは共産主義が政治的に大きな力をもった地域の分布とぴたりと重なっている。具体的には、ロシア、中国、旧ユーゴスラヴィアブルガリアハンガリー、モンゴル、ヴェトナムといった国であり、またフィンランド北部やイタリア中部といった地域である。

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政治的な権威主義と経済的な平等主義が受け入れられやすい。ひらたくいえば、「偉大な父」の庇護のもと、みなが平等な条件で暮らす社会という理想が共有されやすい。それゆえ共産主義が根づいたというのだ。

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実際にトッドは、共産主義だけでなく、ほかの政治思想もそれぞれ特定の家族形態に支えられて現れているのだと主張している。

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たとえば彼の分析によれば、フランス革命の理念は、パリ盆地で支配的だった「平等主義核家族」と切り離せない関係にある。

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平等主義核家族とは、親子のあいだに束縛がない核家族の性格を維持しつつ、兄弟のあいだの財産の平等にも配慮した家族形態のことである。

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ドイツと日本で直系家族が支配的だったことが、ともに近代の一時期、極端な民族中心主義を展開したことと関係しているのではないかと推論している。跡継ぎをひとりだけ指定し、ほかの兄弟を世帯から追い出してしまう直系家族は、支配者の権威を高め、市民間の不平等を受け入れる土壌を育むからである[ ★ 23]。

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絶対核家族は、親子のあいだに束縛がないだけでなく、兄弟のあいだの財産の平等にもほとんど関心を向けない、いわば核家族の純粋種である。

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そのような家族形態を基礎として育まれた、たがいに束縛もなければ関心も低いいわば「ドライ」な人間関係のありかたが、個人主義自由主義を生み出し、のちに産業革命と結びついて全世界に広がることになった。

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したがって、家族の外にも家族しかないというのはたんなる哲学的な逆説ではない。それはトッドにしたがえば人類学的な真実なのだ。

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プラトン共産主義者ポパーもみな、家族を否定し、自由な個人が集う開かれた社会を構想しようとした。にもかかわらず、みな別の家族のイデオロギーのなかでしか動けなかった。家族という言葉には、そのようなとても強い支配力がある[ ★ 24]。

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家族は狭い。そして小さい。だからぼくたちは家族を超えて社会をつくる。公共をつくる。多くのひとがそう信じている。  けれども、ここまでの議論が示唆するのは、もしかしたらそんなのはすべて幻で、ぼくたち人間はしょせんは家族をモデルにした人間関係しかつくれないのではないかという疑いである。家族のかたちが異なるだけで。

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家族という言葉を、開放的で公共的な領域と対置された、「親密」で「閉鎖的」で「私的」な領域を名指すものとして使うのをやめて、むしろ、閉ざされたものと開かれたもの、私的なものと公的なもの、親密なものと親密ではないものの対立を横断して規定するような、より柔軟な関係概念として捉えなおしてみよう。

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発話の意味は、発話そのものをいくら分析しても明らかにならず、発話外の状況によってしか決まらない。ウィトゲンシュタインはそのような状況を「言語ゲーム」と呼び、それこそが自然言語の原初的な条件だと考えた。ひとは辞書と文法書で言葉を学ぶのではない。

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いったいなんのゲームをプレイしているのかわからないまま、 ただプレイだけを続けている、それこそが言語の本質だと主張したのだ。この発見が多くの哲学者を驚かせた。

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 ウィトゲンシュタインが『哲学探究』で示したのは、じつはこのような指摘に反論することはとてもむずかしい、というよりも 原理的に 不可能だということである。

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ぼくたちはふつう、自分の意図は自分がいちばんよくわかっていると考えている。けれども、その意図は現実には見ることも触ることもできない。だからいくらでも他者によって遡行的に再解釈可能なのだ。

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ウィトゲンシュタイン自身はけっしてそのような探究を行わなかった。彼はむしろ、言語ゲームにはそもそも共通の本質なるものがなく、その本質の欠如こそが重要なのだと主張していた。

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続ける。「わたしはこのような類似性を、「家族的類似性」という言葉によってより以上によく特徴づけることができない。

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ゲームは相互に家族のように似ており、交差しあっている。だから発話者は、教育のゲームから命令のゲームへ、あるいは愛のゲームからハラスメントのゲームへと、自分でも気がつかないまま移動してしまうことがあるのだ。

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ゲームには本質がないので、発話者はあるゲームから別のゲームへいつのまにか移動してしまう。それが言語ゲーム論の中核の主張だったが、ウィトゲンシュタインはそこで、その移動の不可避性を根拠づけるためにこそ「家族的類似性」という言葉を提案している。

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彼は、家族の比喩を、共同体が閉じているさまではなく、むしろ 閉じることができないさま を意味するものとして使っているのである。

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一九七六年の講義をもとに、一九八二年に単行本として出版された『ウィトゲンシュタインパラドックス』である。

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この主張は直感的にはバカげている。にもかかわらず、クリプキの検証によれば、じつはこの主張に反論することは原理的に不可能である。反論のためには、あなたが「+」という記号で、それまでずっとクワス算ではなく加算を意味していたことを証明しなければならない。けれどもそれができないのだ。

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クリプキ懐疑論者は、このようにして、およそあらゆる反論を再反論で論破することができる。

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この思考実験が重要なのは、それによって、ウィトゲンシュタインが発見した「自分がなんのゲームをプレイしているのかわからないまま、ただプレイだけを続けている」という性格が、けっして自然言語の曖昧さに起因するものではなく、数学や論理学を含む科学的な知一般の条件であることが示されてしまったからである。

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クリプキはつぎのように記している。「なにかの言葉でなにかを意味するといったようなことはありえない。新しい言葉の適用ひとつひとつが暗闇のなかの跳躍であり、どのような現在の意図も、これから選択するかもしれないいかなる行為とでも調和するように解釈することができるのである」[

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この主張はおそろしく破壊的である。なぜならばそれは、規則も意味も本当は実在せず、 現在の行為を支えているはずの規則や意味は、 未来の行為に照らしていくらでも論理的に遡行的に書き換えることができる ということを意味してしまっているからだ。

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いままでと同じ規則に従って行動している、いままでと同じ意味で発話しているといった主張は、もはやいかなる実質的な意味ももたない。それは未来の「いかなる行為とでも調和するように解釈することができる」。これがクリプキのいう「ウィトゲンシュタインパラドックス」である。

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彼がまず提起したのは、規則や意味という概念は、特定の行為が成功したのか失敗したのか、その成否を判定する他者がいなければそもそも成立しないのではないかという疑いである。

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わたしはいま「+」で加算を意味している」といった命題が意味を獲得し、真偽の判定が可能になるのは、あなたが加算結果を他者と共有し、あなたの「+」と他者の「+」が本当に同じものなのか、比較して確認したあとでのことだと考えるわけである。

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クリプキはつぎのように記している。「あるひとのいまがその過去の意図と調和しているのかどうか、それを決めることができる真理条件や事実は存在しない」。

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規則や意味の成立は、原理的に他者を必要とする。ぼくたちは他者がいてはじめて、規則や意味について有意味に語ることができる。

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これはあたりまえの主張に聞こえるかもしれない。けれどもクリプキの仕事の重要性は、なんども繰り返しているように、そのようなラディカルな他者依存性が、加算のような算術においてすら排除できないと論証したことにある。

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人間は加算においてすら、原理に頼ることができない。現実に人間が行なっているのは、こいつは加算を理解している、あいつは加算を理解していないという、個々の事例についての 具体的な 成否判断でしかないというのだ。

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あらゆる規則、あらゆる意味の一貫性は、それが生み出した行為に依存して、未来の他者の判断によって遡行的に産出されるものにすぎない。

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クリプキウィトゲンシュタインの言語論を読みなおすなかで、そのような認識に辿りついた。これは別の視点でいいかえれば、規則や意味の一貫性なるものが、ひとがだれを仲間だと思い、だれを仲間だと思わないか、それぞれの共同体の境界を決める判断と不可分に結びついているということを意味している。

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いいかえれば、その人物を「+」をめぐる価値観を共有する仲間だとみなさず、プレイヤーの共同体から追い出すだけの話だ。

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もし問題の個人が、特定の状況において、共同体が行うであろうことと一致しないことをするのであれば、共同体はもはやそのひとに概念[の理解] を帰属させることができなくなる」だけであり、したがって懐疑論者に反論できなくてもなんの問題も起こらないのである[ ★ 29]。

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だから、あらゆるゲームは必ず、プレイの成否を判定するプレイヤーや観客の共同体を必要とする。

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さきに共同体があり、それがプレイヤーを選別することで規則が確定するのだ。

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ここで「訂正」と呼ばれているものは、共同体の内部と外部の境界を揺るがし、その成員を拡大する契機のことにほかならないからである。

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いかなる共同体も、内部の正しさに閉じこもり、外部からの参加を排除したままでは滅びる。

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その「訂正」は共同体からプレイヤーへ向けられるだけでなく、逆に プレイヤーから共同体へ向けられることもある と考えるべきではないだろうか。

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さきに規則があり、それを理解するプレイヤーが共同体をつくるのではない。さきに共同体があり、それがプレイヤーを選別することで規則が確定する。クリプキはそう結論づけた。

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その結論もまだ静的すぎる。現実には規則は移り変わっていく。共同体も移り変わっていく。ゲームそのものが変わっていく。規則が共同体を生み出すわけでもなければ、共同体が規則を生み出すわけでもない。むしろ、プレイヤーたちが繰り出すプレイについて下される毎回の成否判断、そしてそれに付随する「訂正」の作業こそが、規則と共同体をともに生み出し、ゲームのかたちを動的に更新していくと考えるべきではないだろうか。

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ぼくがここからさき「家族」と呼ぶのは、そのような子どもの集団をモデルとする共同体のことである。

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プラトンヘーゲルポパーは、家族を閉ざされた共同体だと考えた。それは長い哲学の歴史に規定されたものでもあった。けれどもウィトゲンシュタインクリプキから引き出した本論の枠組みにおいては、家族はもはや閉ざされた共同体だとはみなされない。かといって開かれているわけでもない。

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う。規則は変わる。伝統や習慣や価値観は時代に応じて変わる。プレイヤーも入れ替わる。古い世代は死に新しい世代が生まれる。けれども、なにもかもが変わっていくにもかかわらず、参加する家族=プレイヤーたちは、なぜかみな「同じゲーム」に参加し続けていると信じている。その矛盾したダイナミズムが家族の本質である。

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家族とゲームの概念は、開放性と閉鎖性の二項対立よりも上位にある。開かれたものと閉ざされたものを対立させる発想は、人間のありかたを考えるうえではそもそもあまりにも粗雑なのだ。

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はっきりしたアイデンティティがあるわけでもなく、参加者が固定しているわけでもなく、新しい状況にあわせてすがたを変えていきながら、それでも「同じなにか」を守り続けていると主張する組織や団体。政党にしても企業にしても結社にしても、あるいは国民国家そのものにしても、世界にはそのような存在が溢れているが、その強さの源泉はなんなのか。ぼくはそれについて考えたいと思った。

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クリプキが『名指しと必然性』で挑んだのは、固有名についてのある謎だった。

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名前と定義のあいだのそのような置換可能性を、論理学の用語では「一般名はそれを含む命題の真理値を変えることなく、確定記述の束で置き換えることができる」と表現する。

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自然科学では、定義そのものの否定には意味がないと定めてもよいかもしれない。けれども歴史学のような人文科学では、定義そのものを否定することができないとそもそも研究自体が成立しないのである。一般名と固有名は、この点においてまったく挙動が異なっている。

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固有名は定義の束に還元することができない[

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クワス算の逆説と固有名の逆説は、ともに記号の 遡行的な訂正可能性 に関わって生じている。

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本論が導入したい新しい「家族」の概念は、特定の固有名の再定義を不断に繰り返すことで持続する、一種の解釈共同体だと定義することができる。

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クリプキの考えでは、固有名の指示対象はそもそも定義により決定されていない。「多くの話し手にとって、名前の指示対象は、記述によってよりもむしろコミュニケーションの「因果的」な連鎖によって決定されている」と彼は記している[

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クリプキは、その名指しへの信頼を「伝統」という言葉でも形容している[ ★ 36]。

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クリプキはおそらく、名指しへの遡行が現実に可能だと主張したかったわけではない。人々がそれが可能だと信じていると主張したかったわけでもない。ただ、固有名の奇妙なふるまいを観察すると、 人々がそう信じていると仮定するほかなくなってしまう、そのような背理法にも似た論理を展開したにすぎないのである[ ★ 37]。

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家族とは閉じた共同体だと考えられてきた。けれども本論では、家族を、閉ざされた人間関係ではなく、訂正可能性に支えられる持続的な共同体を意味するものとして再定義したい。

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ウィトゲンシュタインクリプキを導入したことによって、家族という共同体がなぜ強制的で偶然的で、にもかかわらず拡張性に満ちているように感じられるのか、あるていど説明が可能になったように思う。

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言語ゲームは逆説によって成立しているので、家族もまた逆説によって成立している。

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けれども家族においては、伝統を守ることと伝統を変えることは結局は同じことなのであり、むしろその二重性こそが「同じ家族」の持続可能性を支えるのである。

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二〇世紀前半のドイツの法学者、カール・シュミットは、政治とは本質的に、「友」と「敵」の対立を基礎として敵を殲滅する行為なのだと主張した。

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観光客は村を通り過ぎていくだけだから、友とはいえない。ともに村の未来をつくるわけではないし、ゴミなどで迷惑を蒙ることもある。けれども敵でもない。経済的には恩恵を与えてくれるし、新しい住民も連れてきてくれるかもしれない。いままでの政治思想は、そのような「中途半端」な参加の意味についてあまりに考えてこなかったのではないか。それがぼくの問題提起だ。

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それゆえ多くの人々は、すべてを単純な陰謀論で切り取り心の平安を保つか、あるいはすべてに無関心になって麻痺するか、どちらかの状態に陥っているように思われる。それがポピュリズムフェイクニュースに溢れた現代社会の基本的な条件

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ぼくたちはむしろ、あらゆる事例について、つねに想定外の発見や新たな被害者が現れることを折り込み、理解の訂正が必要となる可能性を意識しておくべきではないだろうか。

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そして逆にその裏返しとして、すべてのひとが、自分が当事者ではなく、被害者でもなく、完璧には語れない問題についても、中途半端なコミットメントに乗り出す勇気をもつべきではないだろうか。ぼくたちはどうせいつもまちがい、いつかは訂正される、そのような諦めとともに。

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ない。けれども、そのような中途半端な人々の関与を認めることなしに、あらゆる共同体は持続的なものになりえない。運動も持続的なものになりえない。それがウィトゲンシュタインクリプキ言語哲学から導かれる、実践的な結論のひとつである。

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 グラフ理論によれば、閉鎖的でありつつも開放的であるというその二面性は、「つなぎかえ」と呼ばれる操作を仮定することで実現可能になる。

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つなぎかえとは、たくさんの頂点(ノード) が線分(枝) でつながることによってつくられているネットワークにおいて、各頂点を始点とする線分の終点を、特定の確率でランダムに選ばれたほかの頂点につけかえる操作を意味する専門用語である。

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家族は観光客でつくられる。家族は誤配で生まれ、訂正可能性によって持続する。それがぼくの考えだ。

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誤配と訂正の連鎖こそが、現実の人生の特徴である。家族とは神聖で親密で運命的で、そして訂正不可能な閉ざされた共同体だという発想のほうが、よほど非現実的なのだ。

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家族とは訂正可能性の共同体だ。そこでは、偶然と運命、変化と保守、開かれているものと閉ざされているものは対立しない。それらの対立は、哲学的に厳密には、遡行的な訂正可能性が作り出す幻影にすぎない。

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政治学者の宇野重規は『日本の保守とリベラル』と題された著作でつぎのような説明を与えている。

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アメリカでは、みながリベラリズムを支持しているという前提のうえで、古典的なリベラリズムを守る側が「保守」、現代的なリベラリズムを推進する側が「リベラル」だという独特の差異化が成立した。

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いる。「あえていえば、仲間との関係を優先する[……] 立場が保守と、普遍的な連帯を主張する[……] 立場がリベラルと親和性をもつといえる。このことは、政治において、共同体の内部における「コモン・センス(共通感覚)」を重視するか、あるいは、自由で平等な個人の間の相互性を重視するかという違いとも連動し、今後の社会を論じていく上での有力な対立軸となるであろう」[ ★ 42]。

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いまの日本の保守とリベラルの対立は、抽象的な主義主張の対立としてというより、そのような連帯の感覚の対立として捉えたほうが理解しやすい。

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ここまで繰り返し指摘してきたように、開かれている場を志向すること、それそのものが別の視点からは閉鎖的にみえることがある。

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保守は閉ざされたムラから出発する。リベラルはそれを批判する。けれども、そんなリベラルも結局は別のムラをつくることしかできないのだとすれば、最初から開き直りムラを肯定する保守のほうが強い。

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プラグマティズムとは、かんたんに説明すれば、「真理」とか「正義」とかいった抽象的な概念について、そこになにか超越的なものが隠されていると考えるのではなく、むしろそれらが現実の生活のなかで果たす実用的(プラグマティック) な機能に注目し、その観点から哲学や倫理学を再構築しようとする思想的立場のことである。

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リベラル・アイロニズムの立場は『偶然性・アイロニー・連帯』という著作で打ち出されている。それは、ひとことでいえば、公と私の徹底した分裂を受け入れる立場のことである。ローティは「公的なものと私的なものとを統一する理論への要求を捨てさる」ことだと説明している[ ★ 44]。

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ローティは、そのような普遍性への思いこそ、私的な領域に閉じ込めるべきだと主張するのである。それが「リベラル・アイロニズム」だ。

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自由で民主的な世界においては、確かにだれもが自分の好きな神を信じることができる。革命の物語でも陰謀論でも好き勝手に主張することができる。けれどもそれはあくまでも 個人の趣味の範囲において のことである。それを超えた夢を抱き、本当の社会変革を試みることは許されない。

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結論からいえば、そこでローティが期待を向けたのが「共感」や「想像力」である。彼はそれをつぎのように表現している。これからの連帯を支えるのは、「わたしたちが信じたり欲望したりしていることを、あなたも信じたり欲望したりしますか」という信念に関わる問いでは なく、「あなたは苦しんでいますか」というより単純な身体的な問いであるべきなのだと[ ★ 46]。

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ぼくはさきほど、保守は「わたしたち」から始め、リベラルは普遍性から始めると記した。その分類に従えば、ローティはここで、リベラリズムをめぐる議論のなかに、まさに保守的な優先順位を持ち込んだのだということができる。

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もういちどローティを読んでみよう。繰り返すが、彼は普遍的な理念が支える連帯を信じなかった。彼が信じる連帯は、具体的な人生に対する具体的な共感に支えられるもののみである。ローティ自身はそれを「他人の人生の細部への想像力による同一化」と呼んでいる[ ★ 49]。

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多くのひとは、人類よりもはるかに小さな「わたしたち」にしか共感できない。これがローティの出発点だ。

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しかしローティは同時に、その共感の範囲そのものが書き換えられ、拡大していく可能性にも注目している。

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連帯とは「苦痛と屈辱の点における類似性に比較して(部族、宗教、人種、習慣そのほかの) 伝統的な差異がどんどん些細なものにみえてくる能力」であり、「わたしたちから大きく異なった人々を「わたしたち」のなかに包含するものと考える能力」でもあると定義している[

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 ローティは、「わたしたちリベラル」について、それは「自分自身を拡張し、より大きな、いっそう多様性に富むエトノスを創造するために身を捧げる」集団であるべきなのだと記している[

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つまりローティはここで、「わたしたちリベラル」は、エトノス自身を拡張し多様化するエトノスであるべきだというじつに再帰的な定義を提案しているのである。「わたしたちリベラル」が民族中心主義的に肯定可能なのは、その民族=エトノスの内部に自己変革と自己拡張の契機が繰り込まれているがゆえなのだ。

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共感や想像力は「わたしたち」から出発するしかない。それがまずは彼の主張だ。

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けれども他方で、ローティはその「わたしたち」の範囲が「偶然的」であることも繰り返し強調している。ぼくたちは確かに特定の国に生まれ落ちる。

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ぼくたちがアメリカ人だったり日本人だったりすることには必然性がない。したがってアメリカ人風に考えたり日本人風に考えたりすることにも必然性はない。その徹底した根拠の不在=偶然性を自覚するのが、彼のいうリベラル・アイロニストなのだ。

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ローティの考えでは、逆に、ぼくたちはその根拠の不在を梃子にして、共感の範囲をいくらでも書き換えることができるはずだということになる。

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ぼくたちはみな「わたしたち」から出発するしかないが、同時にその「わたしたち」の範囲はあまりにも根拠が薄弱なので、他者への共感を介していくらでも修正し拡張することができる。それがローティの思想なのである。

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まずは連帯は「わたしたち」から始まる。ぼくたちは生まれ落ちる場を選択できず、したがって「わたしたち」の共感の範囲も選択できない(偶然性)。だからそれは強制的で排除的に感じられる(強制性)。けれども同時に、その「わたしたち」は輪郭が曖昧で、具体的な他者への共感によっていくらでも拡張することができる。「わたしたち」は、同じ「わたしたち」を保っていると信じたまま、内実を漸進的に変化させることができる(拡張性)。

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クリプキもローティもともに、目のまえの他人が予想外の行動をとったとき、ひとは意外とその他人を「理解」できてしまうという弱点に注目し、それを逆に共同体の構成原理に取り込んだのである。

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ローティの思想は、閉じた社会に居直るものでも開かれた社会を目指すものでもない、つまり保守でもリベラルでもない第三の「家族的」な政治思想を考えるうえで、重要な参照点となる。

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保守のなかに位置づけるならば、ローティの思想は 再帰保守主義 とでも呼ぶしかないはずだ。そこでは保守すべきものがたえず再帰的に再構成されるものとして考えられて

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リベラルな「開かれ」にまっすぐ向かわなくとも、保守的な「閉ざされ」をたえず訂正し、再定義し続けることはできるのであり、そちらにこそ新しい政治思想の基礎を置くことができるだろう。

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公共性について考えるとき、いまでもよく参照されるのは政治学者の齋藤純一が二〇〇〇年に出版した『公共性』である。

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保守が閉じた共同体を好み、リベラルが開かれた公共性を好むという対立そのものも、本当のところは最近つくられたものにすぎないといえる。

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本論では、まずは開かれていることを正義だと考えるのが正しいのか、そこから疑っていこうと提案しているのだ。

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人間は、ポリスとオイコスを区別するからこそ、アリストテレスが定義したように「政治的動物」でありうる。それなのに近代においては「生命の維持」の価値があまりに高くなり、その区別が見失われてしまっている。これがアーレントの根底にある問題意識である。『

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彼女はじつは公共性にふたつの異なった定義を与えている。ひとつは「現れ」による定義である。「[公共的であるということは] 公に現れるすべてのものが、あらゆるひとによって見られ、聞かれ、可能なかぎり広く公示されることを意味する」と彼女は記している[ ★ 55]。

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もうひとつの定義がある。そちらは「共通」「共同」による定義である。アーレントは、いまの引用の直後に公共性は「わたしたちすべてにとって共通なものとしての世界」のことでもあると記している。

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アーレントは公共性を、一方では開放的な「現れの空間」として定義し、他方では持続的な「共通の世界」として定義した。両者はまずは「人間の複数性」を蝶番にしてつながっている。

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けれども『人間の条件』をよく読むと、そのふたつの規定が微妙に齟齬を起こしていることにも気がつく。

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アーレントの考えでは、人間的な営為は、労働(レイバー)、制作(ワーク)、活動(アクション) の三つに分けられる[

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アーレントは、そのなかでもっとも重要で、もっとも人間的なものは「活動」だと主張した。

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アーレントはそれを、活動においてのみ、「なに」(ホワット) ではなく「だれ」(フー) が問われるのだとも表現している。

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アーレントは、ひとがそのように人格でぶつかりあうことこそが、公共性の不可欠な条件だと考えた。

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 社会が開かれているとは、すべてのひとが固有名として尊重されることを意味する。

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しかし、人間をいかなる集団にも分類せず、あらゆる市民に対して固有の人格として接する政治や統治なるものは、本当に実現可能だろうか。

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ぼくたちは制作によってものをつくる。ものには客観性があり、制作者が死んだあとも持続的に存在する。その持続性こそが「共通の世界」に公共性を与える。それが『人間の条件』の基本思想だった。

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政治家や哲学者は確かに公共性を担う。彼らは言葉で他者と触れあう。しかしその営みはそれだけでは消えてしまう。それが歴史になるためには、本が書かれ、記念碑が建てられ、ものづくりが行われなければならない。本当の公共性は、活動と制作が組み合わされなければ実現しないのである。

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アーレントは公共性を開放性のみで定義したのではない。開放性と持続性によって定義した。開放性としての公共性は活動によって可能になり、持続性としての公共性は制作によって可能になる。だとすれば、公共性の質は、活動と開放性だけでなく、制作と持続性の観点からも判断されなければならない。

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活動は制作の助けがなければ残らない。それはいいかえれば、活動の成果が「共通の世界」の構成要素になるかどうかを決めるのは、活動を担うひと自身ではなく、制作者というまったく別のタイプの人々だということである。

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アーレント自身が、じつは活動者は自分の固有性をわかっていないと記している。「活動の完全な意味が明らかになるのは、ようやくその活動が終わってからのことであ」り、「活動と言論においてひとは自己を開示するが、じつはそのときも自分がなにものであるかは知らないし、どのような「だれ」を暴露することになるのかもまえもって予測することはできない」[ ★ 66]。

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アーレントの公共性論は、制作と持続性の論点を導入することで、ウィトゲンシュタインクリプキの洞察にかなり近づけて理解することができる。

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人間が多数存在することが、意見の多様性を生み出し、公共性を準備する。アーレントはまずはその複数性を維持する条件について考えた。そう理解すれば、彼女の真の関心はポリスとオイコスの区別よりさらに深く、世界の持続性そのものにあったのだとも解釈できる。

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アーレントは革命の熱狂を評価しなかった。その理想が新しい制度に定着しなければ評価しなかった。同じように開かれた議論があるだけでは満足しなかった。読者や観客がいて、未来に伝えられなければだめだと考えた。

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プラトンは国家から家族を排除しただけではない。ものづくりも排除していた。開かれた社会を目指し、言葉だけを操っていればよいというリベラルの錯誤は、二四〇〇年前の哲学者から現在までまっすぐにつながっている。本論のアーレント読解が、その伝統に楔を打ち込む助けになればよいと思う。

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けれども祭りは祭りにすぎない。

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多数派の意見を変えたりはしない。かりに左派が、長期的な戦略なく一時の流行に乗って事足れりとするのであれば、それはかつてアーレントが指摘したような、熱狂のみを追い求めたフランス革命の失敗を反復するだけに終わるだろう。

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政治が目指すべき公共性は、開放性の場としてだけではなく、同時に持続可能な場として、したがって訂正可能性の場としても構想されなければならない。それが第一部の結論である。

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理想の政治は、あらゆる法、あらゆる偏見、あらゆる差別、あらゆるイデオロギー、あらゆる友敵の分割を乗り越えるものでなければならない。本書の議論はそのような信念のうえに組み立てられている。その点ではリベラルの側に立つ。

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ぼくたちは、「リベラルなアイロニスト」として、あるいは再帰的な保守主義者として、伝統を守るために変える、あるいは変えるために守る、そのような両義的な態度をもって社会に接さなければならない。おそらくは、それだけが人間にできることなのである。

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正義はその訂正の運動でしかない。正義は、開かれていることにではなく、つねに訂正可能なことのなかにある。

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人文学は信頼を回復しなければならない。人文学には自然科学や社会科学とは異なった役割があることを、きちんと論理的に伝えなければならない。じつは本論はそのような意図でも書かれている。

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ハワード・ラインゴールドのスマートモブズ論や伊藤穰一創発民主制論などに代表され[ ★9]、産業界に近い論者のあいだで熱心に議論されていた。

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ブログがまず出現し、フェイスブックが二〇〇四年に、ツイッターが二〇〇六年に始まった。初代iPhoneが発売されたのは二〇〇七年である。

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二〇二三年のいま、ネットが民主主義をよくすると素朴に考えているひとはほとんどいないのではないか。

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ネットはかつて民主主義を強化するものだと考えられた。いまでは民主主義を危機に陥らせるものだとみなされている。二〇一〇年代に起きたこの逆転は、さきほどまで論じていた情報技術の過大な評価と歩みを同じくしている。

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そもそもカーツワイルにしろ落合にしろハラリにしろ、コンピュータを利用することで人間ひとりひとりが賢くなるなどとは主張していなかったからである。彼らはあくまでも、人類社会の 全体 が、人工知能の助けを借りることで、いわば「群れ」として賢くなる可能性について考えていた。だからそこでも愚かな個人がいなくなるわけではない。

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人間は機械の助けを借りるとすごいことができる」というシンギュラリティの夢と、「人間は機械の助けを借りないとろくに意志決定もできない」という民主主義への失望は、そこではぴたりと重なり合うのだ。

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ハラリは未来の人類は人間かデータかを選ぶことになると記していた。人間には正義と真実は見抜けない。だから機械に見抜いてもらうほかない。多くのひとがそう考え始めているのだとすれば、ぼくたちはすでにハラリのいうデータ至上主義の時代に足を踏み入れている。 4

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ここからさき、そのような失望を前提とした民主主義の構想を 人工知能民主主義 と呼ぶことにしよう。それは、あまりにも複雑になった世界においては、もはや人間の貧しい自然知能に統治を任せることのほうが危険で無責任であり、これからは民主主義を守るためにこそ、むしろ政治から人間を追放し、意志決定を人工知能に任せるべきなのではないかと提案する新しい政治思想のことである。

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人工知能民主主義は、人文系の思想として現れたのではなく、理工系のシンギュラリティの夢と深く結びついて現れた。だからそれを批判するためには、まずは二〇一〇年代の時代精神を検討する必要があった。ここまで駆け足ながらその作業を行なってきた。

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共産主義という「大きな物語」を引き継ぐかのように、いま技術的な装いのもとで現れている人工知能民主主義は、じつは単純に異形の民主主義として退けられるものではない。

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それはむしろ、近代民主主義の本流中の本流であり、その人間排除の思想も二世紀半前から延々と受け継がれてきたものだと理解することができるのだ。

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ぼくはこの論考を、カーツワイルがいうようなシンギュラリティは来ない、人工知能民主主義は実現しないと考える立場から記している。しかしそれはけっして、機械は人間に追いつけないという主張を意味しない。

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ぼくがシンギュラリティの思想を批判しているのは、その変化は人間が人間であることになにも関係しない、むしろそこでは「人間とはなにか」という古い問題が帰ってくるにすぎないと考えるからだ。

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ぼくたちが日々直面している生きることの厄介さは、そもそもゲームの相手が人間だから生じているのではない。ゲームの規則が不完全だから生じているのでもない。ぼくたちが人間だから生じている。肝心のぼくたちが規則を不完全にしか運用できず、つねに訂正を加えてしまうプレイヤーだからこそ、すべての問題は生じているのだ。

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過剰な人間信仰と素朴な人間批判の両立、それこそが「大きな物語」の本質である。

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それに対してぼくはここからさき、きわめて常識的に、人間にはたいして能力がないので、人間の限界を超えることなどできないという主張を展開する。私有財産と資本主義は克服されない。家族も民族も解体されない。格差も戦争もなくならない。人間はいつまでも人間としてくだらない問題で悩み続け、文句をいい続ける。ぼくは民主主義の可能性については、なによりもその前提で考えるべきだと思う。

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一般意志とはなにか。ひらたくいえば社会全体の意志のことである。しかしこの概念には大きな謎が隠されている。『社会契約論』のおさらいから始めよう。

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一般意志」は『社会契約論』では、そのような社会契約が成立したとき、必然的に生まれる集団の意志として定義されている(第一篇第六章)[

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特殊意志は個人の意志を意味している。そして全体意志こそが特殊意志の集まりだという。それでは一般意志はなにかといえば、一般意志もまた特殊意志の集まりではあるのだが、しかしたんなる集まりではないというじつに厄介な書きかたがされている。

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ば、「一般意志は全体意志とは違うものであるはずだ」というその信念にこそ、この二世紀あまり民主主義が相互に矛盾するさまざまな期待を背負いながらも望ましい政体として語られ続けてきた、その最大の理由があるからである。

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統治者がひとりなら君主制、少数なら貴族制、多数なら民主制と呼ばれるだけの話で、いずれが望ましいかについては議論があった[ ★

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ルソーは、統治者が君主ひとりだったとしても、そのひとりが人民の意志を把握し、それに基づき統治するのであれば問題はないと考えていた。だから君主制を支持することができた。けれども

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ルソーは国家は人民の意志で統治されるべきだと主張し、それを読んだ人々はそれならば統治は人民が担うべきだと考えた。民主制こそが理想的な政治体制だと考える近代の歴史はここから始まる。

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フランス革命以降、世界はこの二世紀あまりずっと一般意志の幻影を追い続けてきた。どこかに人民の意志があるに違いない、そしてそれに従えば理想の統治ができるに違いない、そのような思いが改革と革命の原動力になってきた。けれども同時にそれは、そんな人民の意志は見つからないかもしれないという不安と表裏であり続けてきた。

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他方で全体意志は、社会がつくられた あと 各人が抱く好みの集積にすぎない。

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シュミットは一九二六年に『現代議会主義の精神史的地位』という著作の第二版を出版し、新しく長い序文を書いている。これはナチスが急速に党勢を拡大し、ヒトラーが指導者の地位を固め始めた時期にあたる。

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一般意志は議論によって生まれるものではない。シュミットによる議会の否定は、この点ではルソーの忠実な継承といえる。

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ルソーは、一般意志をつかみ、人々を真の公共的な利益へと導くためには、「立法者」という強い指導者が必要になると考えていた。

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西側では、社会が人民の意志に導かれるためには、まずは市民的自由の確保が不可欠だと考えられた。だから言論の自由が尊重され、複数政党制が重視された。逆に東側では、社会が人民の意志に導かれるためには、まずはブルジョワ階級の支配を打破することが必要だと考えられた。だから共産党の一党支配でも問題はないとされていた。

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ルソーは一七一二年にジュネーブで生まれている。時計職人の子で貴族ではない。

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ルソーを哲学者としてだけみれば、『学問芸術論』のつぎは五年後の『人間不平等起源論』であり、そのつぎは一二年後の『社会契約論』だということになる。

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新しい人間観とはどのようなものだろうか。それはひとことでいえば、人間とはけっして合理的な強い存在なのではなく、むしろつねに情念に振り回され、他人を傷つけ、ときに自分自身すら壊してしまうような弱く不安定な存在なのであり、それゆえに尊いのだという人間観である。

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ロマン主義は人間を不合理な存在と捉える。理性的な啓蒙など成功するはずがないと考える。

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ぼくたちは民主主義の起源にある文章を、そのような人物が記したものとして読まねばならない。

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王の権力は人民が必要としたからこそ存在する。これは裏返せば、王の権力は、人民が必要としないなら正統化されない、つまり転覆してもよいということである。

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ルソーはもともと、ホッブズやロックと異なり、人間は自然状態のほうが幸せだったと主張していた。

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そこでは社会契約は、個人が私的な利害を守るためにこそ必要だと考えられていたからである。これはすなわち、社会は特殊意志の集積から、つまり全体意志からおのずと立ち上がってくるということを意味する。社会の成立を説明するためには、全体意志の概念だけで十分なのだ。

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ルソーは一方で社会は必要ないと考えた。にもかかわらず他方で社会契約が必然だと考えた。すべては自然のままでいいといい、同時に社会は守らなければならないと訴えた。その二律背反こそが、一般意志という概念を生み出したのである。

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けれどもぼくはここではむしろ、その矛盾を、『社会契約論』の議論全体を支える、ある屈折した論理の表れとして解釈することを提案したいと思う。

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同書の社会契約と一般意志の関係についての記述は、ふつうは、まず最初に自然状態があり、つぎに人々のあいだで社会契約が交わされ、結果として共同体が生まれ一般意志が生まれる、そんな直線的な経過を描いたものだと理解されている。実際、素朴に読めばそうとしか読めない。  けれどもぼくにはそれは単純すぎるように思われる。そこには逆に、

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最初には共同体のほうが存在し、つぎにその起源として社会契約が見出され、結果として一般意志があたかも最初から存在していたものであるかのように仮設されるという、そんな 遡行的な発見 の過程が隠されているのではないか。

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いく。『人間不平等起源論』には、「ある土地に囲いをして、「これはおれのものだ」と最初に思いつき、それを信じてしまうほど単純な人々を見つけた人こそ、政治社会の真の創立者であった」というたいへん有名な一節がある[ ★ 18]。ひとはみな孤独で幸せに生きることができるのだから、社会契約は本来は必要ではない。にもかかわらずだれかが私的所有を発見し、不平等を発明してしまったので、みな社会契約を交わすほかなくなって しまった。これがルソーの基本的な構えだ。

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ホッブズやロックは、ひとはひとりでは生きられない、 だから 社会をつくったと考えた。対してルソーは、ひとはひとりでも生きられる、 にもかかわらず 社会をつくって しまった と主張しているのだからだ[ ★ 19]。

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ルソーはじつはあらゆる著作で、一貫して社会が悪で自然が善だと主張している。そこはまったくぶれていない。

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だとすれば、一般意志もまた、もはや単純に実在するものだと考えてはいけないだろう。それはあくまでも、「 もし いま不平等な社会が成立しているのだと すれば」という条件のもとで、遡行的に見出される仮説的な存在と理解するべきなのである。

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ルソーでは、共同体に「身体とすべての能力」を「完全に譲渡する」という絶対的な贈与の行為に変わってしまっている。

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記す。「要するに、各人はすべての人に自分を与えるから、だれにも自分を与えないことになる。そして、各構成員は自分に対する権利を他人に譲り渡すが、それと同じ権利を他人から受け取らないような構成員はだれもいないのだから、人は失うすべてのものと等価のものを手に入れ、また、持っているものを保存するための力をより多く手に入れるのである」(第一篇第六

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それはいいかえれば、ひとは社会契約のあとも、自然状態と変わらず自由でなければならないということである。

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クワス算の計算式がおそろしく抽象的なものだったように、遡行的に発見された社会契約も抽象的なものにとどまらざるをえない。

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ルソーによれば、ひとは社会契約を交わしたあとも、自然状態と同じく自由だということになっている。同時に一般意志に服従することにもなっている。これはつまり、社会状態においては、個人の意志は一般意志の意志に等しくなるということを意味している。

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実際にルソーはある箇所で、個人の意志と一般意志が異なるときには、個人のほうが「思い違い」をしていると考えるべきだと記している(第四篇第二章)。

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意志といえば、ふつうは人間がつくりだすものだと考える。ところがルソーは一般意志について、しばしばそれを人間を超えた「事物」に準えている。

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ルソーはそこで、幼い子どもを教育するにあたって、「自然に由来する事物への依存」と「社会に由来する人間への依存」を区別することが重要だと主張している。

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いる。「社会においてこの悪を治療するなんらかの方法があるとすれば、それは人間の代わりに法をおき、一般意志に、あらゆる特殊意志の作用を越える現実の力をあたえることである。[……][それによって] 人間への依存はふたたび事物への依存となる」[ ★ 20]。

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この記述は、ルソーが一般意志への個人の服従を、人間への依存よりも事物への依存に近いものだと想像していたことを意味している。

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いいかえれば、一般意志の力を、人間が生み出す制約ではなく、天気の良し悪しや土地の高低や水の流れのような自然による制約と比較していたということである。

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ここまでの記述でわかるように、このような主張もまた、「もしいま一般意志なるものが存在してしまっているのだとすれば」という仮定のもと、遡行的に見出されたものだと考えなければならない。一般意志は自然の制約に近く、つねに正しい。ルソーがそう断言するのは、社会契約が成立し、一般意志が存在してしまっている以上、そう考えるほかないからだ。

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すなわち一般意志は、新しい 第二の自然 として位置づけられるほかなかった。一般意志への従属は自然への従属と同じだと考えることで、はじめて彼は、自然状態の肯定と社会契約説を整合させることができたのである。

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ぼくたちは、ルソーを読むにあたっては、つねに論理の屈折に敏感でなければならない。統治者が命じたなら市民は死なねばならない、それはいっけん統治者の理不尽な命令を素朴に肯定するもののようにみえる。けれども本当はそれは「もしいま不平等な社会が成立しているのだとすれば」という条件節を挟み込み、つぎのように解釈しなければならないのだ。

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もしもいまきみたちがこの不平等な社会の存在を承認しているのであれば、かつて社会契約が成立したと想定せざるをえない。だとすればきみたちはいま、論理的な必然として、自分では自由だと感じながらも、同時に一般意志の命令には絶対的に服従しなければならないような、そういう状況に置かれていることになる。それこそが社会が成立するということだが、はたしてきみたちはその残酷さをどこまでわかっているのだろうか──そのような逆説的な問いかけとして。

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特殊意志は実在する。全体意志も実在する。しかし一般意志は実在しない。それは社会が生まれたあと、「訂正」によって遡行的に発見されるものにすぎない。それはもともとは実在しないものだが、発見されたあとは実在する。その逆説は訂正可能性の論理に照らせば逆説ではない。これがぼくの『社会契約論』の解釈である。

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そのなかでもっとも影響力のあった人物がジャン゠マルタンシャルコーというフランスの医師で、

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フロイトシャルコーの公開診療を見学していたのは有名な話だ。

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つまりは、いまぼくたちが知っている無意識の概念は、ルソーの時代には存在しなかった。

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彼がのちの無意識の概念を知らないまま、なんとか社会の集合的無意識について語ろうとした苦闘の跡であるかのように読めてくる。

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無意識もまた、意志でありながら意志ではなく、議論や合意によらず人々の行動を制約するものだからである。

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 ルソーは一般意志は事物だと記したが、一九世紀も末になると、まさに社会そのものを事物として捉えるべきだという思想が出てくる。

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ひとが集まって社会契約を交わし、共同体をつくる。一般意志はその結社の行為から直接に生まれる。だから特殊意志や全体意志と異なって公共性を担う。それがルソーが強調していたことだった。  それは以上のような現代風の解釈を加えると、ひとがあるていど集まる、そうすると人間の行為の集積には統計的な法則性が必然的に現れる、その法則は個人の意志では変えられないので超越的な公共性が宿ると、そう主張していたのだと理解することができる。

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ぼくはそれがルソーに忠実な一般意志の解釈だと信じる。にもかかわらず、ルソーの記述は、二一世紀の知識に照らすと、そのような屈折を考慮することなく、集合的無意識と統計的法則性について語ったものとしてじつにまっすぐに解釈できてしまう。

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これはいまや、一般意志の概念から、訂正可能性をきれいに放逐することができてしまうことを意味している。そして、ぼくの考えでは、二〇二〇年代のいま台頭しつつある人工知能民主主義は、まさにそのような 訂正可能性なしの一般意志 から生まれ出た思想だと位置づけることができるのである。

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人工知能民主主義という思想は、二〇一〇年代の 人間の 民主主義への失望から生まれたものであると同時に、民主主義の核心から必然的に生まれたものだといえる。

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まず第一に、そこではここまで検討してきた「訂正可能性」をめぐる複雑なダイナミズムがいっさい考慮されず、端的に無視されてしまっているという問題がある。そしてその単純化は、ルソーの思想の政治的な危険性とどのように距離を取るか、という課題と密接に関わっている。

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もうひとつ、人工知能民主主義の是非を考えるうえで提起したい問いがある。それは、いくら技術水準が上がったとしても、そもそも政治から人間を排除するなどということが可能なのかという疑いである。

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人間のコミュニケーションが難癖やクレームを原理的に排除できないということだった。

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人工知能民主主義は、人間のすべてのコミュニケーションが訂正可能性に満ちた不安定なゲームであることを忘れた、本質的に非人間的な構想なのである。

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繰り返すが、これは技術の限界に関わる話ではない。むしろ人間の限界に関わる話である。人工知能民主主義者はルソーの思想の継承者だが、そのような限界については、おそらくはルソー自身のほうがはるかによく理解していた。

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ドストエフスキーは『地下室の手記』という小説を発表している。ぼくは最終章でふたたびこの作品に言及するが、そこでドストエフスキーが描いたのは、ひとことでいえば、人間はそもそも、理想社会の到来に それが理想社会だというだけの理由で 反抗することができる、そういう厄介な存在だということである。

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ルソーの「一般意志はつねに正しい」という命題は、「一般意志はつねに正しいとされてしまう」という隠れた副命題とともに理解されなくてはならない。そしてその「正しさ」は、つねに懐疑論者の出現によって「訂正」され続ける。政治とはその訂正の場のことだ。

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一般意志は素朴には実在しない。それは、人間がつねにすでに巻き込まれている訂正可能性のゲームのなかで、遡行的に発見され、「正しいもの」だとされてしまう、そのような逆説的な理念でしかない。ぼくはルソーをそのように読むことこそが、唯一民主主義の未来につながる道だと考える。一般意志の構想は、訂正可能性の思想によって補われねばならない。

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特殊意志は実在する。全体意志も実在する。しかし一般意志はそのように単純には実在するといえない。なぜならばうしろに訂正可能性の論理が隠されているからだ。人工知能民主主義はそんな訂正可能性を消してしまうので危険なのだ、というのが本論が言いたいことである。

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だからビッグデータの分析者は、かわりに、そのひとがどこに住んでいるか、だれと住んでいるか、どんなものを買っているか、だれと交流しているかなどを調べ、類似した生活を送っている人々の資産状況と照合し、数学的なモデルをつくって目的の人物の資産状況を 推測する。

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オニールは、ビッグデータ分析においては、「あなたは過去にどのような行動をとったのか」という質問が「あなたに似た人々は過去にどのような行動をとったのか」という質問によって置き換えられていると指摘している。

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ビッグデータ分析は、本性上、例外をつねに群れの一部として取り込み、 その例外性を消去してしまうこと を意味している。

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オニールはここにビッグデータ分析が抱える倫理的な欠陥をみる。ビッグデータ分析においては、「ぼく」の人生はどうあがいても「ぼくに似た人々」の平均に吞み込まれてしまう。「ぼく」は、「ぼくに似た人々」への差別や偏見からけっして自力で脱出できないのである。

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この問題は、まさに本書が主題としてきた訂正可能性の論点と関係している。オニールが指摘したのは、要は、ビッグデータ分析から導かれるスコアが個人の力では「訂正」できないということだからだ。

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なにも訂正されない。あえてクリプキの例に近づけるなら、これがビッグデータ分析において起きている事態である。

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一般名と固有名は区別される[ ★ 32]。一般名は定義の束に還元される。だから定義を否定する命題は意味をもたない。他方で固有名は定義の束に還元されない。だから定義を否定する命題も意味をもつ。「じつは……だった」という遡行的な訂正が起こる。これが第一部で確認したことだった。

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ビッグデータ分析はまさにこの固有名を扱うことができない。「ぼく」ではなく「ぼくに似た人々」を扱うとは、つまりは固有名ではなく定義の束を扱うということだからである。

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東浩紀という人間の固有性は最初から問題になっていない。それゆえ「じつは東浩紀は……だった」という遡行的発見=訂正そのものが成立しないのである。

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表象の空間では市民は属性の束として、現れの空間では市民は固有名として現れる。

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けれどもここまでの議論で明らかなように、ビッグデータ分析は最初から表象の空間しかつくらないのだ。

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ひとはそれぞれ固有だからこそ、所属集団の平均から外れた意見をもつことができる。そしてそのような例外的な交流や出会いがあるからこそ、社会はたくさんのタコ壺に分裂せずに一体性を保つことができている。

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みたび第一部で用いた言葉を引けば「誤配」だ。

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ビッグデータ分析は、ネットにばらまかれた断片的情報(個人より下位のデータ) をかき集めることで、特定のひとの状態や行動をあるていど予測可能なものにしてしまう。

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しかしそのような利用には大きな問題がある。なんども繰り返しているとおり、ビッグデータ分析は個人に関わらない。あくまでも群れについての予測を出すにすぎない。したがって、そのような分析に基づく権力は、「あなたはなにものなのか、あなたはなにものでありうるのかと問うことがけっしてない」ままに、個人の自由を奪うことになるからである。

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そこでは権力は最初からあなたを拘束するが「おまえは犯罪者だ」と告げるわけではない。権力は最初からあなた個人を相手にしていない。権力はただ単純に、「あなたに似た人々」にテロリストが多いのだから、犯罪の危険を減らすためにはあなたを含む「群れ」を隔離し、管理するのは合理的だと説得してくるだけなのだ。

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統治性とはそもそもフーコーの言葉である。そしてフーコーは、権力からの「おまえはなにものなのか」という呼びかけを市民が内面化すること、すなわち「主体化」の過程こそが、近代国家の統治を安定させるため必要不可欠なものだと考えていた。

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ケトレはじつは、社会物理学の構想と並んで「平均人」という理念を発明したことでも知られている。

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平均的な人物を規範的、すなわち「ノーマル」なものだとみなし、そこからの逸脱を変異や劣化と捉える彼の人間観は、まさに「あなたはなにものなのか」とたえず問いかける生権力と呼応している。

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人工知能民主主義、あるいはアルゴリズム的統治性、あるいはその実装としてのビッグデータ分析の政治的な利用、呼び名はなんでもよいが、そのような構想のもとで情報技術で支援される権力は、その原理上、ひとを固有名として扱うことができない。

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統計による予測は、いくら精緻になったとしても、ひとを個人ではなく群れの一部として扱うことしかできない。そこでは「じつは……だった」という訂正の論理も働かないし、市民の主体化も起きないし、「現れの空間」も立ち上がらない。一般意志の規定を素朴に受け取り、その逆説の背景にあるルソーの葛藤を無視し、群れとしての人民の意志をビッグデータから抽出し統治の基盤にするだけでは、民主主義にとって重要なものが欠けてしまうのである。

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 ズボフは、ぼくたちはいまや、産業資本主義や金融資本主義に加え、監視資本主義が支配する時代に足を踏み入れつつあるという。ここでキーワードは「行動余剰」である。

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ズボフは、本論でここまで「固有名を扱えないこと」や「主体化を生み出すことがないこと」といった言葉で検討してきた問題が、ビジネスではすでに利潤の源泉として組み込まれていることを鋭く抉り出している。

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ズボフはつぎのように残酷に記している。「わたしたちはもはや、価値実現の 主体 ではない。また、一部の人が言うような、グーグルの「商品」でもない。そうではなく、わたしたちはグーグルの予測工場で原材料を抽出・没収される 物 にすぎない。わたしたちの行動に関する予測がグーグルの商品であり、それらを買うのは、グーグルの真の顧客である広告主であって、わたしたちではない。わたしたちは 他者の目的を達成するための手段 なのだ」[ ★ 41]。

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人工知能民主主義と監視資本主義の世界においては、人間は搾取の被害者にすらなれない。主体になれないとは、つまりは被害者にもなれず、抵抗もできないということなのである。

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鈴木は二〇一三年に『なめらかな社会とその敵』という著作を出版している。同書の主題は「分人民主主義」である。「

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に順位づけを施していくアルゴリズムである。伝播委任投票は、そのページランクの思想を政治に応用したものだといえる。ページランクでは重要度がリンクで伝播するが、伝播委任投票では信頼が委任で伝播する。

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伝播委任投票では有権者が主体化しない。これは考えてみれば当然である。そもそも分人民主主義とは、個人の単独性と統一性を解体し、分人の束に分解することを理想とする思想だったからである。

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それだけに逆にこの書物が、近代において、 民主主義を追求することがかえって人間の解体や排除につながる という危険な逆説があることを、あらためてはっきりと示してくれているからである。

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構成的社会契約論」という軸になる概念がある。それはひとことでいえば、近代民主主義の起源に位置する社会契約説を、生命科学やネットワーク理論の知見を援用して根本から組み立てなおす試みのことだ。

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ホッブズ、ルソー、ロックら、啓蒙思想家は、社会システムの自然状態を、人間が自我をもった一個の人間として最初から存在しているものとして想定していた。だが、現代の生命科学が明らかにしているのは、人間は細胞から構成された動物であり、生態系の一部として進化的な位置づけをもった生命のひとつであるという事実である。[……] 私たちは、まず生命を語り、その延長線上の存在として人間と社会制度について語らねばならない」[

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むしろ生命科学的には、自分と自分以外の境界なるものは、局面に応じて動的に生成されるものだと考えたほうがよい。そのような考えかたを「オートポイエーシス」と呼ぶ。

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ということは、そこには人間の居場所はないということである。鈴木は、分人民主主義は「自己の結晶化」を「否定」する「新しい社会規範」の思想なのだと記す。そこでは「「私というかたち」がさまざまな部分グラフとしてソーシャルネットワーク上に溶けていくことになる」のだという[ ★ 44]。民主主義の理想を達成するためには、個人や主体や固有名は解体され、人々は群れのなかに溶け込んでいかなければならない。そう考える点で、分人民主主義は人工知能民主主義と同じ価値観を共有している。

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ある。  したがってぼくは、人間の社会について考えるにあたり、その「私」という固有性の感覚に直面しない思想は、すべて原理的な欠陥を抱えていると考える。

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人工知能民主主義は現行の民主主義より効率的なのかもしれない。意志決定は迅速で、資源配分も巧みで、多くの人々を幸せにしてくれるのかもしれない。しかし、それでも、それが生の一回性を無視し、人々の意志を群れの表現としてしか理解することができないかぎりにおいて、けっして持続的な統治は実現できない。

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二〇二〇年代のいま、日本でも世界でも、統治から不安定な人間を追放し、政治的な意志決定はアルゴリズムビッグデータに任せたほうがいいという思想が台頭している。ぼくはそれを人工知能民主主義と名づけた。

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人工知能民主主義のなにが問題なのか。社会は人民の意志に導かれねばならない。それは民主主義を民主主義たらしめる重要なテーゼである。しかしそれは同時に危険なテーゼでもある。

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ルールはプレイヤーを制御するものであるが、しかしまた同時にプレイヤーによって生み出されるものでもあるから

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一般意志は社会の外部に絶対的な力の源泉として君臨する。しかし同時に社会の内部から訂正可能なものでもある。これはいっけん矛盾している。けれども、ここまで繰り返し述べてきたように、それは本当は矛盾にならない。ゲームのルールはゲームプレイの外部に存在する。プレイヤーはルールに一方的に従うしかない。しかしルールそのものは、プレイヤーの予想外のプレイや新しい提案によって柔軟に変更されるものでもある。ゲームはむしろそのような訂正可能性によって持続する。

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一般意志を、静的で計測可能な集合的無意識としてではなく、動的に訂正可能な言語ゲームとして捉えることで、ぼくたちは全体主義への傾きを封じ込め、『社会契約論』の構想をあらためて大きく未来に開くことができる。

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ルソーは、人間は自然状態で十分に幸せだったのであり、文明は人間を堕落させただけだと主張していた。そこからは必然的に、芸術もまた人間を堕落させただけだとの見解が導かれる。

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ルソーの主張はふたつある。ひとつめは、さきほども記したように、物語が実話なのか虚構なのか、判断できないところがよいというものである。彼は第一の序文で、この書物は恋人たちの手紙を集めたものであり、彼自身は編者にすぎないと断りを入れている。かといって収められた手紙の実在を積極的に証明するわけでもなく、実際にはルソーが創作したものであることはだれの目にもわかる。けれども、とりあえずそのような「ふり」をしている。

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彼の哲学においては、自然と文明、自然と社会、自然と作為、事物と社会といった二項対立は、善と悪、真実と噓といった価値判断と切り離しがたく結びついている。自然は善で真実、文明は悪で噓、すべての不平等は人為から生まれるのであり、ひとは自然に戻ればいいというのが、ルソーの基本的な構えだっ

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空想による著作にそれが持ちうる唯一の効用を与えるには、著者の目指すところとは反対の方向へ作品を導かねばならない」のだと記す[ ★ 51]。

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読者を作者の意図どおりに誘導するだけでは、人為が勝る。読者を作者の意図を超えた場所に誘導できて、はじめて小説は、人為でありながら「自然に戻」す効果をもつ。ルソーはそのように考えた。

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ルソーはなぜ演劇を否定したのだろうか。全集に付された訳者の解説によれば、背景には政治があったらしい[ ★ 53]。演劇を認めるか認めないかは、当時のジュネーブにおいて、宗教や階級、そして外交などと関係するセンシティブな話題だった。演劇を支持する側には啓蒙思想に親しむ上流階級が多く、演劇の危険を訴える側には宗教的伝統を支持する下層市民が多かった。

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ルソーはつぎのように記している。「人間の心は、自分に個人的にかかわりのないことに関してはつねに正しい」。しかし「そこにわれわれ自身の利害が混入するとき、われわれの感情はたちまち腐敗」する。そこには鋭い矛盾があるにもかかわらず、演劇を観る経験においては人々は「少しも自腹を切らず」に「虚構に涙を流す」ことができる[

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彼[=観客] は自分に対しては少しも美徳を望んでいません、というのも美徳は彼自身には高くつくからです。それではいったい、彼は何を見に芝居に行くのでしょうか。まさしく彼がいたるところに見出したいと願っているもの、すなわち彼自身は含まれていない公衆のための美徳に関するさまざまな教訓、さらには彼自身には何も要求しないが自分たちの義務のためにすべてを犠牲にする人々なのです」[ ★ 56]。

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一般意志は確かに特殊意志の集まりではある。ただしそれは、社会契約によって一気に出現するものであり、けっして市民が議論を交わして生み出すものではない。ルソーはむしろ、市民が集まり、論争したり党派をつくったりして相互に利害を調整する過程は、特殊意志の表出を歪め、一般意志の形成にとって障害になると考えていた(第二篇第三章)。

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この懸念は二一世紀のいまも有効である。演劇が社会を壊すという主張に戸惑う読者も、さきほどの引用の「みんな芝居の楽しみを求めて劇場に行くのではなく」を「みんな作品の質を求めてリンクをクリックするのではなく」と置き換えれば、多少の想像力が働くのではないか。

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ルソーは第一に、演劇は噓だから社会を壊すと主張していた。演劇の言葉は絶対的に噓である。そこでは役者が目のまえにいて、明らかに他人のふりをして言葉を発しているからだ。  けれども小説はそうではない。少なくともルソーの小説はそうではない。『新エロイーズ』は書簡集であり、真実か噓かは外見からは決定できないからだ。それゆえ彼は、そこでは演劇のような安易な乖離は起きず、一般意志の形成を妨げることもないと考えることができた。

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ルソーは第二に、演劇は「小さな社会」を壊すので社会を壊すと主張していた。けれども小説にそのような破壊力はない。少なくとも『新エロイーズ』にはない。同書は都会では読まれないはずだからだ。

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ルソーの思想を支える「しまった」の論理に触れた。人間は自然状態でも幸せだった。にもかかわらず社会状態に移行して「しまった」。自然状態から社会状態への移行はけっして必然ではなく、また望ましいものでもなかったが、起きてしまったからにはしかたがない。人間はその状態から遡行して、社会契約の必然性を再構築するほかない。ルソーの哲学の核心にはそのような屈折が仕込まれているというのが、ぼくの理解だ。

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そこではもはやルソーは、自然の価値を称揚するだけの理論家ではない。自然を守るために逆に人為が必要とされるという逆説のうえで、自然を捏造しようとする実践家へと足を踏み出している。

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ここで訂正可能性とは、一般意志の正しさ、いまの文脈でいえば 自然の純粋さが、絶対的なものとして立ち現れながら、同時に遡行的に再構成可能でもあるという両義的な性格をもつことを意味している。『

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いる。「ルソーには、ユートピアを構築するさいに、契約といった法律的な関係(強制) によって考える立法者的な思考と、人間の心の自然な結びつきというようなけっして強制されえない関係(自由) を媒介にして考える恋人的、あるいは文学者的な思考の二つがあってその両者が緊張関係を保っている」のだと[ ★ 68]。『

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はサン゠プルーの帰還によっても壊れることがなかった。 もしジュリが事故死しなければ、 サン゠ プルーはむしろ最後まで成功することがなかっただろう。ヴォルマールの愛こそが成功し続けていただろう。ルソーはそのような小説を書いたと理解すべきなのである。

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かかわらず美しく保たれている。サン゠プルーはその謎を問う。ヴォルマールは「真の趣味は、とりわけ自然がつくりなすものに関しては、人の技を隠すことにあります」と答える[ ★ 69]。

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むしろ、作家である自分をヴォルマールのほうに重ねている。『新エロイーズ』はそもそもが、人為によって自然を守り、噓によって真実を守り、創作によって純粋な愛を守るという矛盾した課題を抱えて執筆された小説だった。

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けれどもそれはたんなる恋愛小説ではない。なぜならば、彼らふたりの対立は、素朴な自然と人工的自然の対立であり、社会契約の絶対性と「小さな社会」の対立であり、それゆえ一般意志と訂正可能性の対立でもあるからだ。ぼくたちはこの小説を、そのような哲学的な視野のもとで読みなおさねばならない。

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一般意志は超越的で絶対的な存在である。自然と愛も超越的で絶対的な存在である。けれどもそれらは同時に訂正可能性に開かれていなければならない。

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なろうと提案するだけでなく、ひとつの要求を出す。それは「[ジュリと] 二人きりでいて私がそこにいるかのようになさるか、それとも私の前で私がいないかのようになさるか」、そのどちらかを選択してほしいというものである。

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真実と噓の境界をなくすことで、はじめて自然は「訂正」される。そして自然が人工的かつ遡行的に発見される。

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ぼくたちはそれを知っている。だから変化を歓迎する。けれどもやはり、自分が永遠だと信じていたものが訂正され、過去に遡って書き換えられてしまうとき、同時に寂しさも感じざるをえない。それがルソーが描いた感傷である。

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一般意志は、社会の外部に位置する絶対的なものであり、自然に比較される。しかし同時に社会の内部に位置し、文明によって訂正可能なものでもある。

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自然は、自然のまま放置すると、自然以外のものへと堕落してしまう。同じように一般意志は、一般意志のまま放置すると、一般意志以外のものへと堕落してしまう。そこでルソーは、自然を自然のまま守り、一般意志を一般意志のまま守り、統治を健全なまま維持するためには、「小さな社会」という人工的自然を創出する必要があると考えた。『新エロイーズ』は、そんな思想を寓話化するために書かれた小説だと解釈できる。

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た。一般意志は真実の言葉(哲学あるいは法の言葉) によって構成されるが、「小さな社会」は真実か噓かわからない言葉(小説あるいは恋愛の言葉) によって構成される。「

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ポリフォニーはもともと音楽用語だが、ここでは文学分析に転用されている。文字どおりには「多声性」という意味で、複数の声が並び立ち、ひとつの声に収斂しないさまを表している。

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バフチンの対話はそのような対話とはまったく異なる。彼が想定する対話は終わることがない。いかなる結論も暫定的なものにすぎず、あとでいくらでも転覆しうるからだ。人間のコミュニケーションは、みなが同意する安定した「真実」にけっして辿りつくことがない。 そしてそれは失敗ではない。バフチンの考えでは、むしろその完結不可能性こそが人間の自由を保証するのである。 28

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人間はたったひとりでいても、たえず内なる対話に、つまり自己ツッコミの声に悩まされている。それは人間の自由の不可避な副作用なのだ。

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ルソーからドストエフスキーへ、そしてバフチンへは、文学史の標準的な理解でもつながっている。バフチンポリフォニー分析はルソーの言葉にも適用可能だろう。

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人間はいついかなる時も、いかなる人間であっても、決して理性や利益が彼に命じるようにではなく、自分の望みどおりに行動することを好んできたのである。

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ゲームのルールはつねに新しいプレイによる訂正の可能性に晒されている。対話もまたつねに新しい応答による訂正の可能性に晒されている。だからゲームは終わらず、対話も終わらない。裏返せば、だからこそゲームも続き、対話も続く。ぼくはこのウィトゲンシュタインクリプキバフチンのゲーム=対話の概念こそが、ルソーが『新エロイーズ』で提起した「小さな社会」を理解する鍵だと考えている。

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一般意志は、真実か噓かわからない言葉で構成された、けっして安定した真実に辿りつくことのない、自己ツッコミに満ちた終わらない対話の場の確保で補われなければならない。

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ユルゲン・ハーバーマスは、一九六二年の『公共性の構造転換』でつぎのような議論を展開している。第一部でも触れたように、この著作は、アーレントの『人間の条件』と並び公共性についての近年の研究の基礎文献となっている。

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社会がよく統治されるためには、だれにでも開かれていながら、かつ理性的な議論が交わされる場が整備されねばならない。

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ぼくはここまで、クリプキクワス算、バフチンの対話、『新エロイーズ』におけるヴォルマールの嫉妬や『地下室の手記』の呪詛などを、一般意志=ゲームの絶対性を覆す言葉の例として挙げてきた。それらはけっして理性から生まれた言葉ではない。私的で、価値転倒的で、ときに反社会的ですらありうるような雑多な言葉たちである。「小さな社会」の対話は、バフチンの表現を借りれば、けっして「最終的な真実」に辿りつかない。それゆえよき公共にもよき統治にも辿りつかない。けれどもそれは、 だからこそ逆に、一般意志が押しつける絶対的な真実をたえず訂正し、「脱構築」することで、その暴走と腐敗を抑制する役割を果たすのである。

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一般意志の暴走は理性によって正しく抑え込まれるのではない。それは文学によって正しさとは無関係に抑え込まれる。政治の真実は、文学の噓がともなってはじめて統治を人工的自然に変えることができる。だからこそぼくはここまで、『社会契約論』と『新エロイーズ』の相補性が重要だと強調してきたのである。

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一般意志は暴走する。だから別の契機で補われねばならない。ぼくはいまでもそう信じている。

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熟議という言葉は政治思想の世界では、まさにハーバーマスが「コミュニケーション的合理性」によって基礎づけを試みたような、理性的で公共的な議論を意味するものとして用いられている。それゆえ熟議民主主義の理想にも、対立する立場の市民もしっかり時間をかけて話し合えばなんらかの合意に達するはずだという、根本的な楽観主義が伴っている。

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理性的で公的な言葉ではなく、感情的で私的な言葉こそが、一般意志の暴走を、すなわち「自然」や「公共」や「真実」や「正義」の絶対性を切り崩す。というよりも、それらの絶対性は、むしろその脱構築によってこそ可能になり持続する。

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ぼくたち人間は、絶対的で超越的で普遍的な理念を、相対的で経験的で特殊的な事例による「訂正」なしには維持できない、そのようなかたちの知性しかもっていない。

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だからぼくたちはけっして、 民主主義の理念を、 理性と計算だけで、 つまり科学的で技術的な手段だけで実現しようとしてはならない。それが本論の主張であり、本当は『一般意志2・0』でも伝えたいことだった。

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トクヴィルが思想家として記憶されているのは、三〇代で出版した『アメリカの民主主義』が後世の社会思想に大きな影響を与えた

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アメリカはなぜ共和制を維持できているのだろうか。トクヴィルの答えはひとことでいえば、アメリカは権力の分散に成功したからだというものだった。

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いわく、アメリカでは連邦と州に主権が分離している、タウンという基礎自治体が強い行政権をもっている、結社や出版の自由がほぼ全面的に認められている、陪審制が発達しほとんどの市民が司法に参加できる、などなど

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じつは「多数の全能がアメリカの共和国にとって非常に大きな危険」なのであり、「結社の自由は多数の暴政に抗する必要な保証となっている」ことに気がついていく[ ★ 85]。

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つまりトクヴィルは、本論の言葉で表現すれば、結社こそが一般意志の暴力を抑え込むと主張していたわけだ。この二〇〇年近く前の記述は、民主主義の健全なありかたを示すものとしてたびたび参照される。

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彼らの仕事が逆に再評価されることになったのである。この価値転換は歓迎すべきことだが、安易な言及も生み出した。「公共性」や「アソシエーション」は、革命の物語なきあと、一部左派のあいだで連帯を語るための魔法の言葉ともなった。ここではあえて例を挙げないが、日本でもこの四半世紀、アソシエーションという言葉はじつに便利に使われ続けている。

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彼らはそんなものの価値を信じないからこそ、「社会的権威」の指示を待たず、勝手に連帯し自己の利益を守ろうと試みるのである。この自助の精神は二一世紀のアメリカでも生きている。それはいまではリバタリアニズム自由至上主義) と呼ばれ、共和党支持の一翼を支えている。

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トクヴィルは、ハーバーマスが理論化を試みたような「市民的公共性」の精神ではなく、むしろそのような公共など頼りにしない、孤独でときに脱公共的なリバタリアニズムの精神こそが、多数者による暴政を抑え込むと指摘していたことになる。

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むしろ彼は結社については、 アメリカではとにかくいろいろなひとがいろいろなことを勝手にやっている、それが重要だと考えていたのではないか。

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結社の自由は、それによって悪が正されるから重要なのではない。現実には正しい目的の結社があるのと同じように、悪い目的の結社やくだらない目的の結社もあるだろう。けれどもそれでいい。重要なのはそのような多様な結社が存在することであり、自由はその環境を整えるために必要なのだ。

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ぼくの考えでは、トクヴィルのこのような認識は「喧騒」というなにげない言葉に集約されている。

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この絶えず沸き起こる喧騒[agitation] は民主政治がまず政治の世界に導入したものであるが、やがてそれは市民社会にも及ぶ。民主政の最大の利点は結局この点にあるのではないだろうか。私が民主政を称賛するのは、政府の業績以上に、この政府の下で市民がなすものを考えるからである」[

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アメリカではすべてが政治になる。それは裏返せば、政治と政治でないもの、公と私の区別の感覚が希薄だということでもある。

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アメリカでは、みなが自分の「幸福の追求」に懸命であるのが正しいことなのだ。トクヴィルはここでその状態を喧騒と呼び、それに対してこそ驚きを表明している。

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民主主義を敵視する人々が、一人の支配の方が万人の統治より立派な仕事をすると主張するとき、彼らは正しいであろう。[……] 民主政治は国民にもっとも有能な政府を提供するものではない。だがそれは、もっとも有能な政府がしばしばつくり出しえぬものをもたらす。社会全体に倦むことのない活動力、溢れるばかりの力とエネルギーを行き渡らせるのである」[ ★ 90]。

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民主主義は統治形態の名称ではない。イデオロギーの名称でもない。それはなによりもまず社会のありかたの名称なのだ。『アメリカの民主主義』は、そのような洞察に辿りついたからこそ、民主主義論の古典になりえたのだとぼくには思われる。

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民主主義の本質は喧騒にある。終わることのない対話が一般意志を取り巻くことで、統治は健全なものになる。

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トクヴィルはけっして、民主主義が最良の統治をもたらすとは主張していなかった。彼はむしろ民主主義の利点を、そのような喧騒があるために、統治者の誤りがたえず修正されるところにあると考えていた。

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トクヴィルが、陪審制を、判決の場というより、むしろコミュニケーションの場として評価していたことを意味する。

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フランスは革命という花火を打ち上げただけで終わった。アメリカはそのあとも共和制を維持した。だからアメリカのほうが革命と民主主義の経験としてすぐれている。トクヴィルもおそらく同じように考えていた。

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リセットの幻想

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いまの基準で過去を断罪さえすれば、それが正しさなのだと信じるようになってしまった。

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正しさとは本当は、正しい発言や行為なるものが確固として存在するようなものではなく、つねに過ちを発見し、正しさを求める運動としてしかありえない。

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ぼくたちはつねに誤る。だからそれを正す。そしてまた誤る。その連鎖が生きるということであり、つくるということであり、責任を取るということだ。

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正義なんて本当は存在しない。同じように真理もないし愛もない。自我もないし美もないし自由もないし国家もない。すべてが幻想だ。  みなそれは知っている。にもかかわらず、ほとんどのひとはそれらが存在する かのように 行動している。それはなにを意味するのか。人間についての学問というのは、究極的にはすべてこの幻想の機能について考える営みだと思う。

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