子育て×哲学×社会学「この青空を、君へ」

父から息子へつなぎたい思想

約束が果たされる事の奇跡

先日友人がこのような事を言っていて、
ほんとだなぁ〜と実感したこの数週間。

誰かと約束をして、
その約束が果たされる事って本当に奇跡だ。

今年は奥さまが永年勤続賞で特別休暇をもらったとのことで、
いつもより長い冬休みをとることになった。

本当は海外旅行に行きたかったようだが、コロナ禍で断念。
3ヶ月ほど前に実家で過ごすと決めた。
その日から12/18元気に2人を届ける事が、最大のミッションとなった。

9月末
夫婦でコロナに罹る。
帰省前でよかった。
抗体ゲットか?!
コロナの館で息子はピンピン
わたしは10月末までスッキリしない日々

11月末
保育園がコロナで休園。息子も濃厚接触者に。帰省前でよかった。

12月頭
お義母さんが、ぎっくり。
12/25から義母、妻、息子で小旅行を企画しているとか。
まだ3週間ある。大丈夫。

12/9金曜日
保育園でまたコロナ確認。
息子濃厚接触者に。。。
おいおい来週だったら詰んでたぞ。

12/12月曜日
保育園から、別の子が罹患し、休園が15日水曜日まで延期と連絡。
木曜日、金曜日の2日行ったら出発の土曜日。
木曜日はおじいちゃんとおばあちゃんが預かってくれるし、
金曜日1日家にいればもう土曜日だから、そのまま保育園休もうと決める。

12/14
私と奥さんPCR検査。
夫婦ともども陰性でホッとする。
陰性だろと自信あってもメール開く時ドキドキした

12/15
おじいちゃんおばあちゃんの家に朝から私と息子で行く。わたしは2階で仕事。

12/16
わたしは東京へ出社。
奥さん在宅勤務しながら息子の世話。
有り難う。

12/17
羽田付近に前日入り。

12/18
無事に飛行機に乗って旅立った。
私、奥さん、息子が健康なだけでなく、
実家の方々も健康でないと帰れない。

12月は毎夜中、息子の足をさすって熱がないか確かめた。
よし、今日も熱ない。
有り難うございます。

息子とほぼ毎日神社にお祈り。
神様と取り引きするわけではなく、
今日も一日護ってくださり有り難うございます。と感謝を伝えに。

保育園の休園が先週でよかった
お義母のギックリ腰が3週間前でよかった
夫婦でコロナになったのが9月でよかった
在宅勤務できる環境でよかった
おじいちゃんおばあちゃんが近くにいて、助けてくれてよかった
沢山の「よかった」が集まって、12/18飛行場で見送る事ができた。
どれかがズレただけで、12/18行けなかったかもしれない。

誰かと約束をして、
その約束が果たされる事って本当に奇跡だ。

時に約束は面倒くさい。
約束しない方が楽だ。

約束が果たされなかった時は悲しい。
果たされない約束のほうが多かったりす。

果たされた時のよろこびはひとしおだが
仮に果たされなかったとしても、
約束を果たすためにとった行動の記憶が
のちのち宝物のように蘇ってくる。

約束がなければ無難に過ごせるかもしれないけど
一方で約束は、果たされても、果たされなくても、
この人生に彩りを与えてくれるのかもしれない。

「人と違うこと」に価値はあるか

2016年に『幸せになる勇気』読んだ。

「嫌われる勇気」を読み、その続編として興味を持って手に取った。

人間の抱える最も根源的な欲求は

「所属感」

孤立したくない、

「ここにいてもいいんだ」と実感したい。

そう実感したいために、特別な地位を得たいと欲する。

「その他大勢」にならないようにする

では、他者から承認されていくことで、その所属感を満たしてく事が、正解なのかと言えばそうではない。

承認には終わりがなく、際限なく求める
永遠に満たされない人生を送る

怖い言葉だ。

「わたし」の価値を、他者に決めてもらうこと
それは「依存」

と呼び、

「わたし」の価値を、自らが決定すること、
それを「自立」

と呼ぶ。

普通であることの勇気を持ちなさい その他大勢としての自分を受け入れましょう

そんな…。

普通であることなんて嫌だ、人と違うことをして生きていきたい。そんな人生観だった自分にとっては、衝撃的な文章だった。

ふと、自分の子供時代の父親からの言葉を思い出してみました。

小学生:一つでも人に負けないものをつくろう
中学生:むしろ鶏口となるも牛後となるなかれ
高校時代:文武両道。頑張ったかどうかは他人が決める。数字は嘘をつかない。

このように、常に成長、より高みへ、競争に打ち勝つ!こんな人格形成がされてきた気がする。

人と違うことがしたい、その他大勢なんて嫌だ。

人と違うことが個性だ。

そうやって生きてきた気がする。

一方で、こんな言葉もたくさんもらった。

あなたは、自分以上でもなければ、自分以下でもない。
上を見てもきりがない、下を見てもきりがない。
真剣になることは大切だが、深刻になってはいけない。
自分の人生は自分で決めなさい。
私の記憶では、親から勉強をしなさいと言われた記憶が無い。

自分が決めた進路、就職先に関してとやかく言われた記憶もない。

自分で決めたのなら、後悔のないようにしなさい。

そう言われてきた。

これらの言葉をもらっていながら、
やはり人間というのは、
見たいものだけ見て、聞きたいことだけ聞いて、理解したいように理解する。

アクセルを踏む言葉ももらえば、
ブレーキの言葉ももらっていた。

が、アクセルにばかり焦点が行ってしまってるんだな。

大学院に入って、先輩、同期、後輩とすごい人達にであって、「自分は何者でもない」と認識した。

だから、まずは大風呂敷など広げず、目の前の事に心を込めようと思った。

ph.nowandhere.jp

が、まだまだその他大勢になりたいくないというもう一人の自分は出てくる。

この思いは消せないと思うので、どう折り合いをつけていくかが次なのだろうな。

アドラー心理学の中に、課題の分離という言葉がある。

相手が自分をどう思うかは、相手の課題。
それを気にしても何も始まらない。

自分の価値は自分で決める。
相手が自分をどう評価しているのか、それは気にしても意味が無い。

「人と違うこと」に価値を置くのではなく
「わたしであること」に価値を置く

「わたしであること」の結果、その他大勢と同じであるならそれでいいよ。

「人と違うこと」を追求して、「わたしであること」が蔑ろになるのであれば、それは間違いだよ。

そう、君に伝えたい。

「何不自由のない暮らしだなだけど何か満たされぬ」の正体は何か

GLAYpure soul の冒頭の歌詞
20代の僕に響いた歌だった。
何度も聴いて、何度も歌った。

何不自由のない暮らしだな
だけど何か満たされぬ
 

そんな夜もあるだろう
そんな夜もあるだろう
 

何を恐れているのかもわからず
街を飛び出した
 

必死でつかもうとしている
栄光は大きな意味を
明日に投げかけたとしても
望まない結末もある
 

繰り返す暮らしの中で
避けられぬ命題を今
 

背負って 迷って もがいて
真夜中 出口を探している
 

 

手探りで

人は誰でも「生きづらさ」を感じるものだろう。
僕も幼少の頃から生きづらさを感じてきた。
一方で、自分は恵まれている人間だという自覚もあった。
 
祖父によく言われた。
「お前はよい星の元に生まれた」
 

それを本気で信じていた(今も信じている)。
 

父親からはよくこう言われた。
「男とは、強さとやさしさだ」    

 
よい星の元に生まれた、強くてやさしい自分
 

という理想像が常に傍にあったと思う。
現実的にもその理想像にある程度沿った人生を歩んできたようにも思う。

ただし、常に理想と現実のギャップには苦しんできた。

体格に恵まれ、学力も東京六大学に入れる程度には持ち、
就職も転職もそれなりにやりたいようにできて、起業も経験している。

結婚もして、こどもも生まれて、いいパパと呼んでもらうこともある。
側から見たら、恵まれた人と映るであろう。

でも、やっぱり生きづらい。

もしも世界が100人の村だったら。
アフリカのこども達に比べたら。
上には上がいるが、下にも下がいる。
足るを知れ。
 

いろんな言葉で、方法で自分が恵まれた存在であるから、
世のためにその力を使えと自らを奮い立たせてきた。
 
 
でも、そんなデータ僕のこの感情の前では無効なんだよ。
 
 
「生きづらい」と感じているこの感情は、疑いようのない僕にとっての真実でしょ?

この感情に蓋をせず、正対し、向き合って、和解していくにはどうしたらよい?

「実存」という言葉と出会う。

人間は誰も決して他人と交換できないただ一度切りの生しかもてず、そのため自分の内部だけで処理しなくてはならない固有で絶対的な課題を負っている。キルケゴールが示した人間のこういった契機を、わたしたちは〈実存〉という言葉で呼んだ。
 
〈実存〉とは、最終的には絶望を底板として抱えている人間の生のこの根本条件のことなのである。
 

〈実存〉という概念は、人間はどのように生きようと、最終的な問題の解決にも目的にも 決して達しないものとして自分の生を持っているということを告げている。
 

いずれも『現代思想の冒険』(竹田青嗣先生)より引用

見田宗介先生の書籍のこれらの言葉に惹かれた

社会学を仕事としようとしたときに最初に思ったのは、
社会というものを、上流、中流、下層とか、資本家階級と労働者階級とか、都市と農村というように、構造としてとらえることももちろん大切だけれども、
それよりも根本的なところで、社会というものを、一人ひとりの人間の、切れば血の出るような〈人生〉のひしめきとして把えたい、ということでした。
一回限りの人生を生き尽くしたい。

実存論の視点から言えば、
人は一回限りの人生を生き(一回性)
誰とも交換不可能(非連続性)
だからこそ、生きている限り、この生を生き尽くしたいという欲望を持つ。
 
○○世代とか、○○社会とか、分析的に僕のこの人生を捉えてくれるな。
 
世の中の現実がどうであろうが、今、ここを生きている僕は、生きづらいんだ。
 
現代の欲望の矛先は、他者の欲望へ向く。

他者と比べて持っている。
他者と比べて優位にある。

このことによる感情で、実存は満たされるのか?ある程度満たされることもあるだろう。ただ、満たされ続けるのだろうか。
おそらくこの辺りに自分の感じる「生きづらさ」の根があるように思う。

ひとは、自分が現にある社会の枠組の中で、それなりに目標と意味を見出して生きる限り、あえていままで自分が持っている〈世界像〉を一から考え直してみる必要はない。  
ひとが深い意味で思想を問題とせざるを得なくなるのは、自らが抱えている一般的な〈世界像〉やその価値観そのものが、どうしても自分にとって和解し難いものと感じられるような場面においてである。
 
思想は、人間が自分のうちに抱え込んでいる一般的な〈世界像〉に対する違和の意識から発し、この〈世界像〉や価値観に対する意識的な抗いの行為である。

こちらも『現代思想の冒険』より。

そして、見田宗介先生の『現代社会の理論』の一節に涙が出る。
こんな論考で涙が出るなんて、病みすぎだ(笑)

自然解体的でなく、他者収奪的でない仕方の生存の美学の方向に、欲望と感受の能力を転回することもまた可能なはずである。

ふと見上げた青空に心奪われたり
人のやさしさに心が癒されたり
こどもの無邪気さに心が洗われたり

こういった純粋経験の領野は、
自然解体的でもなく、他者収奪的でもなく、この実存の欲望を満たして、幸福感で包んでくれる。

欲望の矛先を他人との差異に向ける必要はない。

それでも、目を横に向けると、自然解体的、他者収奪的な仕方で実存を満たそうとする人たちもいる。これらの人たちとどう和解していけばよいのか。

一回限りの、交換不可能な、非連続性の存在であるが故に、
この生きている間に少しでも多くの欲望を満たしたいという本性がある人間達が、
自然解体的でもなく、
他者収奪的でもない仕方で「実存」の「欲望」を満たせる人生をすべての人が志向する。

その道筋を示すことができたなら
この僕の生きづらさとも和解できるのかも知れない。

GLAYpure soul の2番のサビでいったんしめよう。

愛は愛のままじゃいられず
いつか形を変えるだろう
 
共に生きる家族恋人よ
僕はうまく愛せているのだろうか
 
よくできた解答の果てに
悩みぬく世の中はなぜ?
 
平凡で手アカのついた言葉でも
愛してると伝えてほしい


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