子育て×哲学×社会学「この青空を、君へ」

父から息子へつなぎたい思想

哲学に対する誤解を解きつつ学ぶ意味を考える

少しでも哲学が身近なものになり、 多くの人が「自分で考える」という武器を手に入れられれば、 社会はもっとうまくまわるのではないか?という想いがある。

私が哲学を学ぶ理由ははっきりしている。それは、

「信念対立を乗り越えて、互いに豊かに生きる筋道を付ける方法が哲学」

と思っているからだ。

どういうことだろう?

以下の内容で、話をしていきたい。 ちょっとずつ更新予定。

更新履歴

2022/08/27 目次と簡単なメモを記載

哲学に対する誤解を解きつつ学ぶ意味を考える

「答えのない問い」を問うのではなく、「答えるの出せる」問いを問う

カント「物自体」という概念で、人間が認識できる範囲とできない範囲があることを示した。 哲学では、「根本原理」「究極原因」問うてもしょうがないと示されている。 たとえば、 究極原因:世界の果てはどこか? 根本原理:世界の始まりはいつか?最小単位はなにか?

<真理>の追究ではなく、誰にとってもそう考えざるを得ない<原理>を考える

唯一の真理はないと哲学的には示されている。 哲学は、その時代、歴史において、誰もがそう考えざるを得ないよねと納得する<原理>を置くことで、社会を回すルール、条件を導く。

<世界>や<社会>を「神話」や「宗教」で説明するのではなく、徹底的に「理性」で描く

感情とか証明不可能なもので世界や社会を描くのではなく、徹底的に理性(言葉)で世界や社会を描く。

自分を超え出たところに答えを求めるのではなく、あくまで自分の内から答えを導く

理想は自分を超え出た彼岸にはないことも哲学的には示されている。 デカルト方法的懐疑:すべてのことを疑っても残るものは、私が考えているということ。「我思う、ゆえに、我あり」 フッサールの現象論:絶対的所与性:すべてを疑い尽くしても疑えない感情の部分がある。「こわい」と思ったそのことは疑ってもしかたない。 唯一の真理はないが、個人的な確信はある。個人的な確信は個人で終わるのか、複数の人の間でも共感できる共同体的確信なのか、すべての人がそうだと理解納得できる普遍的な確信なのか。普遍的な確信とはいえ、その時代における共通了解にすぎないので、あくまでも可疑性は残る。その編み変えが、社会を進めていく可能性ということになる。