このブログのタイトルにもつけているように
僕は青空が好きだ。
でも、
「きれいだな」と言葉になる青空と
言葉にならず、ただ心がぱっと開ける青空がある。
その違いはなんだろうか。
建物越しに見る青空に心奪われるのである。
地上から見上げたビルの屋上越しに見える青空
新幹線の線路越しに見える青空
そして、神社の社殿の向こうに見える青空
なんで一面に広がる、遮るものもない青空ではなく、
こうやって何かの建物越しに見える青空に心奪われるのだろう?
近代化と原始の弁証法か?
神社はパワースポットだからか?
この一節を読んで謎が解けた。
光り充つ真昼の海に突き出た大王が崎の尽端に立った時、
遥かな波路の果に、わが魂のふるさとのあるような気がしてならなかった。
これをはかない詩人気どりの感傷と卑下する気には、今もってなれない。
これはこれ、かつては祖々(おやおや)の胸を煽り立てた懐郷心(のすたるじい)の、間歇遺伝(あたゐずむ)として、現れたものではなかろうか。
そうか!そうだったのか。
建物越しに見える青空に心奪われてしまうのは、
何も近代化と原始の弁証法でもなければ、パワースポットのおかげでもない。
青空を遮るあの建物の横に広がる線を
僕の脳は、古代から連綿と引き継がれた僕の遺伝子が、
「水平線」と見立てて青空を眺めていたんだ。
だから、ただ綺麗だとか、いい眺めだと言った言葉に変換されず、
ただただ、心が沸き立ったのか。
福岡伸一さんの『動的平衡』*2によると
ミトコンドリアのDNAを解析していくと、原始のDNAは、16万年+−4万年あたり、アフリカの女性(ミトコンドリア・イブ)に辿りついたらしい。
そのミトコンドリアは、人間の体に取り込まれるもっともっと前から存在しているわけで、そんな悠久の時代を経て、
今この自分の心に、
自分の意志に関係なく、
コントロールすることもできず、
心を沸き立たせる。
西田幾多郎の言う純粋経験
フッサールの言う絶対的所与性
レイチェル・L. カーソンの言うセンス・オブ・ワンダー
僕の場合は、ここにあると確信を得た今日の朝ラン
そして、君へ
君にも悠久の時を超えた命のつながりがある
君の人生だが、君だけの人生でもなさそうだ
時々、自分の意志に関係なく心震わせる出来事に
そっと身を委ねる瞬間も大切にするといいかもしれないね。