子育て×哲学×社会学「この青空を、君へ」

父から息子へつなぎたい思想

移動の目的は「目的地」に着くことか-『気流の鳴る音』真木悠介より-

以前、友人のお子さんの作文を読ませてもらった。

その作文にはこのように書いてあった
(記憶なので原文どおりではない)

 パパは、目的地に行くために電車に乗るけど
 僕は、電車に乗ること自体が目的なんだ。

カミナリに打たれたような衝撃を受けた。
私も、移動が大嫌いで、あまり旅行が好きじゃない。

移動というものが手段に過ぎず、
何も生み出さない、何の価値もない時間の無駄と思ってしまうから。

私も、目的地につくための「手段」として「移動」を見てる。
ただ、「移動」そのものが「充実」したものだとしたら?

 

真木悠介の『気流の鳴る音』を思い出した。


「未来」の目的、理想のために、
「今」の時間、人生、生命を手段としてみるとしたら、

その目的が達成されれば、
今の悪戦苦闘や挫折や困難は報われたものとして思えるかもしれない。

ただし、今の社会は、未来の理想を定めづらかったり、理想が達成されたとして、今の生を手段化した代償として足り得るものかは疑問が残る。

仮に、足り得たとしても、その結果に覆われただけで、
今の生を手段化した生き方に変わりはない。

未来に理想を掲げ、そのために今を生きる生き方ももちろん間違っているとは思わない。

ただ、「今の充実」の積み重ねに未来がある生き方がしたいものだと思う。

ベン・ホロウィッツは著書「HARD THINGS」で世の起業家達を励ましてこう言っている。

「苦闘を愛せ」

当初読んだときは、未来の目的を達成するために、今の苦闘を愛せ、今の苦闘を受け入れよと読んでいたが、
おそらくそういうことじゃないのだろう。

「今、ここにある苦闘を、ただただ愛せ」

未来のための手段的に苦闘を愛するのではなく、
今、ここにある苦闘を自己完結的にただただ愛せ
そういうことなのだろう。

そして、君へ

未来に理想を描き、そのために今を生きる

それも大切だろう

ただ、今、この瞬間を充実させる

ということも忘れないでほしい

この青空を、君へ

ドン・ファンが知者の生活を
「あふれんばかりに充実している」というとき、

それは生活に「意味がある」からではない。
生活が意味へと疎外されていないからだ。

つまり生活が、外的な「意味」による支えを必要としないだけの、
内的な密度をもっているからだ。

『気流の鳴る音』真木悠介より