デカルトは方法的懐疑という手法で、すべてを疑っていったが、それでも今、ここで、思考している自分だけはどうにも疑えなかった。
「我、思う、故に我あり」
これを思考の出発点としようと言った。
方法的に懐疑しようと。
「すべてのことを疑ってかかれ」
この世に「絶対」などない。
唯一の「真理」などない。
人の数だけ「正しさ」がある。
と、相対(懐疑)主義者は言うだろう。
ちょっと待ってほしい。
もし、それが正しいというなら、
一つの矛盾に気づく。
その「すべてを疑え」ということもまた疑う必要がある。
思考停止的に「すべてを疑う」というのは、どうも正しくなさそうだということはわかる。
だから、方法的に懐疑するのだ。
そして、徹底的に懐疑して、思考して、それでも「こう考えざるを得ない」というところまで懐疑し尽くす。
その考えを他者と共有し、その他者も「確かにそう考えざるを得ない」と共感が生まれるなら、その考えは「その時点においては」正しい。
ただ、科学哲学者のカール・ポパーにならえば、科学的であるためには、「反証可能性」の余地を残す必要がある。
「科学的理論は自らが誤っていることを確認するテストを考案し、実行することができる」
これが絶対、真理、唯一の正義ということを言い出すと、相対主義は克服できたとしても、独断論者になってしまう。
ここを反証されたら、自分の論を修正する必要があるという構えを持っておくことだ。
時代、環境、人々の成熟度によって、「正しさ」は変わる。
方法的に懐疑することで、相対主義の疑いの極限に行くことを止め、方法的懐疑によって、一度導き出した「答え」にも反証可能性を残し、独断論者になることも防ぐ
極論は注目を浴びる。
極論を成立させるためのエビデンスを集めることもできる。
推論を導くための論理は考えられる。
ただし、アリストテレスも言っている。
論理的に正しいからと言って事実であるとは限らない。
これも論理としては正しい。
この程度なら見破られるだろうが、見破ることが難しい嘘は世の中に溢れている。
不安を煽って、人を視野狭窄にさせて、これが正しいと思わせやすい。
感情も同様だ。
事件の当事者になれば、個人の問題になる。
その個人の問題は、どうやっても社会の問題に還元できない部分を持つ。
総論賛成、各論反対というものだ。
なので、感情で判断が鈍らされることにも注意したい。
一度感情は置いておいて、
事実だけを取り出して考えたらどうか?という強さも必要だ。
そして、君へ
極論に心奪われぬよう、感情に流されぬよう
悲観的にすべてをうたがうのではなく、
方法的に懐疑しよう
そして、
思考停止した利他ではなく、
合理的に利他であろう
この青空を、君へ