正対すること。
とても大切な心構えと思う。
自分自身、目の前の現実から目を逸らすことなく、正面から向き合うことで、いくつもの困難を乗り越えてきたと思う。
一方で、正対し続けることで、数年前は心身を壊し、療養していた時期がある。もうほぼ飲まなくなったが、万が一のため、今でもお守り的に薬を常備している。
正対するには精神的な体力が必要と思う。
自分の心の状態が整ってない時に正対すると、自分自身の心身が耐えられなくなってしまう。
『気流の鳴る音』(真木悠介)で、ドンファンが「意志」ついてこんなことを言っている。
「意志」とはどのようなものであろうか。ドン・ファンはそれを「人間と世界をむすぶ真のきずな」であるという。p93
「たとえば、おまえの意志はもうおまえに少しずつ裂け目をつくっているんだぞ。」p94
わしらは自分の裂け目をとおして死んでしまうのだ。だからそれが開いていたらいつでもそれを埋められるように自分の意志をしておかねばならん。
意志を、自分に裂け目をつくるものとしてのべていたのに、ここでは反対に、自分の裂け目をとじるものとしてのべている。p95
「正対する」というのも「意志」の一種と思う。
目の前の現実に対して、自分自身を開示する。つまり、「裂け目」を生じさせる。
そうして、一旦すべてを受け止めて、
環境や他人のせいにせず、自分ごととして目の前の現実を乗り越えようと試みる。
とても精神的な体力を消費する。
その裂け目が行き過ぎたら、その裂け目を閉じられる「意志」を持ち合わせていないとこちらがやられてしまうのだ。
この感覚はとてもわかる。
数年前の自分は、その裂け目を閉じずに、「正対し続けよう」と意志した。
結果、許容量を超えて自分の心身を痛めてしまったのだ。心身を痛めた程度で戻ってこられたからよかったが、下手したら。。。と想像してしまう。
「不動心」と言う言葉がある。
この言葉の意味は「決して乱れぬ心」のことだろうか。
いや、そうではない。
田坂広志先生の風の便りによれば、
「不動心」とは、「決して乱れぬ心」のことではない。
「不動心」とは、「乱れ続けない心」のことなのです。
同じ心の話だ。
「正対する」ことは、目の前の現実を乗り越えるために大切な心構えだ。
ただし、「正対し続ける」必要はない。
自分の心を開示して、その裂け目が戻せないくらい裂けそうになるならば、逃げていい。
ゴルゴ松本氏は言う。
逃げて、逃げて、逃げて、また時が来るのを待つ。
そして、また「挑め」ばいいと。
どうか、高い理想、思想、志を持つ人ほど、
このことを心に留めて、目の前の現実と悪戦苦闘してほしいと願う。
そして、君へ
君もきっと高い理想と志を持つだろう。 理想や志が高ければ高いほど、壁も高くそびえ立つ
そのそびえ立つ壁を乗り越えるために、「正対」する必要がでてくる。
それは、それで大切だ。
ただ、開いた心を閉じる準備も忘れないでいてほしい。
この青空を君へ
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